四国九州②

学会は12:30から受付なので、午前は自由時間だ。

ところで、あまりに飛行機が速すぎたせいで徳島に来ている実感が全くない。せいぜい静岡に来ているくらいの感覚になっている。いつ実感が湧くのだろうか…

まず訪れたのは「阿波おどり会館」。部外者立ち入り禁止の事務施設かと思ったがそうではなく、資料館や土産物屋、ロープウェイの発着所も備える立派な観光施設だった。

そしてなんと、毎日阿波踊り公演をやっているらしい。11:00の回を見てきた。

人数は10人強だったが、雰囲気を味わうには十分である。そして、ステージとの間に段差がなさそうなのがお分かりだろうか。

なんと、途中で「阿波踊り体験コーナー」があった。最前列で座っていた筆者は、お兄さんに笑顔で手招きされるとさすがに立たざるをえず、輪の中で踊ってしまった。踊らなかった観客の中には、これから学会に行きそうな人がちらほらいたが杞憂だと思いたい。

振り付けは案外単純だった。だからこそ老若男女に受け入れられて長く続いてきたのだろうと思う。

続いて資料館に向かう(撮影禁止なので写真なし)。阿波踊りは400年ほど前から踊られてきたらしい。明治時代には悪疫の影響で一時停止したこともあったという。コロナの話も、そのうち資料館に載るのであろう。

昭和にはチャルメラやバイオリンも使われたという話も面白かった。

そしてなんと「阿波踊りVR」があり、阿波踊り「本番」の様子をリアルに感じることができた。なお、阿波踊りが筆者の初VR体験となった。

前日に100均で名刺入れ代わりのポーチを買ったがそれでは心許なかったので、藍染めの名刺入れを買った。すだちの味をあまり知らなかったのですだちジュースも買った。

阿波おどり会館の近くには寺町がある。下地図の右上にある緑が徳島城、左下の赤で囲んであるところが寺町である。これはいわゆる「寺社地」にあたるのだろう。

学会へ

学会の初日は現地見学ツアーである。まずは昨日も行ってしまった徳島県立博物館に向かう。

名札が配られたので、大先生ばかりで戦々恐々である。

今度こそさようなら!

次に向かったのは徳島県立考古資料館。体験学習が多く、展示にも見せる工夫があって面白かった。

あっ…(総勢90名)

そのあとは、2時間ほどとにかく歩く。

国府町という地名からわかるように、この周辺は国府であって、木簡がいくつも出土している。

形として整備されているのは国分尼寺の跡。

徳島駅に戻るバスで書いているので、疲れて筆が進んでいないのはお許しいただきたい。

このあとは楽しい楽しい宴会である。

今日はフィールドワークが多かった。屋内で研究発表を聞く、「学会」っぽいのは明日のこと。

明日の学会が終わったら、その日のうちに徳島を発って高松に向かう。

四国九州①

この半年ほど、一部友人から「ブログ書け」圧があったがブログのネタになるようなことはなかなか難しい。

基本的に、「書けるような」「新しい体験」をした時に書くようにしているためである。

M1なら日々新しい体験に満ち溢れているが、それがブログとして公開して面白いか、そもそもブログにしていいのか、という問題があるので書いていない。なお野球はシーズンが終わってから書こうと思う。

さて今回は、久々の長い旅である。四国、九州に行く。なぜ四国、九州かというと、徳島で木簡学会の特別研究集会があるためである。

九州は学会とは特に関係ない。

木簡とは

そもそも木簡とは何か。まずこの点から説明せねばなるまい。木簡とはこんな感じの物体である。(画像:https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/bunkazai/bunkazai_054.html)

昔は紙と木を併用していた。木の利点として、文面が用済みになったら削れば再利用できるということがある(昔は墨なのでもちろん紙は再利用できない)。

削り屑や、あまりに削りすぎてもう使えなくなった木簡は当然ゴミなので捨てられる。しかし、これらには字が残っている。これらが千年以上を経て残っているのが、木簡である。

今の感覚で言えば、「シュレッダーすべき書類がシュレッダーされずに残った」とか、「ゴミ箱フォルダに入れたはずなのになぜか残っていた」みたいなものになるだろう。

なんだよ、ゴミじゃんと思うかもしれない。一面ではそうで、一面ではそうではない。古代の史料で今まで受け継がれてきたものといえば、『日本書紀』などの歴史書や貴族の日記、公文書の文例集などである。しかもこれらは、必要とする貴族たちによって写されて残ったもので、原本は残存しないものがほとんどである。

つまり、古代の資料がそのまま残ることは稀で、何を残すかは、貴族たちの選択によるのである。つまり、どこの国が何年に何を献上したとか、そういった情報は基本的に選択されない。

その点、本来ゴミで、意図せず残存した木簡はそういった制約は受けない。木簡は文献資料の穴を埋める一級資料なのである。

とはいえ、筆者は木簡を研究で使ったことがないのでこれ以上はあまり聞かないでいただきたい。

徳島へ

集会は明日なので、本日は移動と観光の日である。サンライズで高松まで行く、新幹線で新神戸まで行く、18きっぷで行く、色々考えたが、飛行機で行くことにした。

羽田発のJALである。今まで成田発のLCCにしか乗ったことがなかったので楽しみだ。(台湾に行く時に乗った航空会社は忘れた)

楽しみついでに、+2000円ほど払って「Jクラス」なる席にアップグレードしてしまった。大分で会う予定の友人が、特急券無料を捨ててまでグランクラスに乗ったことに触発されたのもある。この友人は筆者がブログを始めるきっかけになった友人で、発想の面白さも段違いなので、ぜひ他の記事も見てほしい。

なお、せっかくならファーストクラスにしようかと思ったが6万したのでやめた。1時間程度のフライトに6万て。そんなん、もう家賃やん。おーん…。

なお、東京モノレールに乗って飛行機を見るためだけに羽田に行ったことがあるので、羽田から乗るのは初めてだが羽田に行くのは2回目である。

12:45発の便だが、朝にやることもなかったので11:20頃に羽田に着いた。まだ朝食を食べていなかったので、朝昼兼用で「うちのたまご」に向かう。

卵とじの味に興味があったのでたまご丼を選んだ。

めちゃくちゃうまかった。江戸そばの濃い味付けも好きだが、上品なだしの風味がする卵とじもまた良い。帰りは卵かけご飯を食べよう。

成田ではずっと僻地、第三ターミナルだったが、今日は泣く子も黙る、駅直結第一ターミナルである。

離陸まで一時間あるし、暇だなーと思っていると、讀賣ショップを見つけてしまった。

8泊9日の旅なのに、初日に買ったこともない野球カードを買ってしまった。

贔屓で言うとオリックスの曽谷選手とヤクルトの木澤選手が出た。

「空弁」という店があったが、ちゃんと中身の入った弁当を売っていた。どういうことなんだろうと思ったが、よくよく考えたら「そらべん」と読むのが正解である。ここ空港だし。

これがクラスJの座席である。

本革シート、大きめのテーブル、広い足元と、かなり優良な設備だった。ドリンクサービスもあった。

鎌倉の「天然の要害」っぷりがよくわかる。

富士山。

南アルプス。さすが日本の屋根といわれるだけある。『日本書紀』か何かに「異常に険しいヤバいところ」みたいに書かれていたのも納得。

徳島空港。あまりに速すぎて拍子抜けしてしまった。リムジンバスで徳島に向かい、そこから県立博物館に向かう。

バスの中でプロスピのガチャを引いたらS川端が出た。なんて幸先の良い旅なんだ…

徳島観光

徳島駅に着いたのは15:00ころだったので、あまり観光もできまい。バスで30分ほどのところに県立博物館があったので、そこに向かった。

県立博物館はこれまで長野、栃木、神奈川に行ったことがあるが、「幅広い層にどうやって歴史を説明するのか?」という工夫にそれぞれ特色があって面白い。木簡が多く出ている観音寺遺跡の予習としても役立つだろう。

と思ったら、学会1日目の行程に博物館が含まれていた。まあ団体行動ではできないような経験をすれば損した気分にはならないだろう。

導入部、とてもきれい。なお歴史博物館ではないので、地質や生物の展示も存在する。学会では理系部分は当然スルーだと思うので、じっくり観察してきた。剥製が数多くあったり、徳島の漁業を知れて面白かった。

触れる展示が多かったのも良い。

外には猫がいた。驚くことに、全く逃げる素振りを見せなかった。地域猫らしい。

博物館の裏にはカスケード(人工滝)があり、バスまで時間があったので見に行ってみた。隣の階段が濡れていて、転んでスマホのガラスカバーとケースが少し割れてしまった。人間万事塞翁が馬とはこのことか。次はいいことがあるはず。

「紺屋町」というバス停があるのが、徳島らしくて良い。

夕食は徳島ラーメンを食べた。徳島ラーメンは豚骨ラーメンで、徳島ハムの工場から安い豚骨が大量に提供されたため生まれたものらしい。

臭みがあまりなく、「おいしい肉のタレ」という感じだった。

珍しいのであおさの替え玉を試してみた。

これはなんだろう…

夜の新町川。海から割と離れているが、潮の香りがするし満潮と干潮があるらしい。

おわりに

宿に着いたので、PC作業をしながら野球でも見て過ごすことにする。当初は快活を取っていたが、あんまり夜まで過ごせるところがなさそうだったので、前日に急遽ホテルに切り替えた。

明日は頑張ろう。頑張って大先生や大先輩にご挨拶。他大に知り合い作っておいてよかった…

3/17 上野

少し前の話だが、上野に行ってきた。大安寺展と東福寺展を見るためである。大安寺は本館にある特集展示で追加料金は不要、東福寺は平成館の特別展でキャンパスメンバーズは1100円が必要である。

東福寺展は会期が十分あるのでもっと遅く行ってもいいのだが、大安寺展がこの日までであった。さらに桜が咲くと、上野が渋谷並みに不快な場所になってしまうためこの日に行ってしまうことにした。

窓口でチケットを購入し、平成館に向かう。森鴎外の写真があるのだが、いつも笑ってしまう(なぜ笑ってしまうのかわかるのは、この世界で10人もいないだろうが)。

東福寺九条道家が創建した禅寺である。奈良の大寺院、東大寺興福寺の名を取っており、その名に恥じぬ大伽藍である。禅寺はあまり仏像もないし、どうしても中世以降なので筆者の守備範囲外である。勉強のつもりで特別展に臨む。

前半は肖像画や袈裟、東福寺の代名詞とも言える五百羅漢図が展示されていた。が、正直筆者は絵画とか文書がよくわからないので、すぐ後半に移った。明兆は教科書で見た気がする。

後半に行くと、東福寺の橋が再現されていた。紅葉で有名らしい。こういう演出は好きである。

最後の部屋が、やっと仏像の部屋だった。仏堂内部の配置をできるだけ再現している。以前延暦寺展に行ったときは根本中堂の須弥壇を再現していたし、唐招提寺展では金堂内部を再現していたと聞く。博物館において仏像を展示する際、美術品として展示するのはもちろんだが、できるかぎり、それがどのような空間に安置されているのかな再現もしてほしい。仏像は、そうしたバックグラウンドがあってこそ面白いものだと思うからである。(美術館で展示されていた仏像をわざわざ現地に足を運んで再び見に行った変人より)

さて、東福寺の本尊は明治に焼け落ちたらしく、一部が残っている。従ってこの等身大くらいの仏像は本尊ではない。本尊の光背に付いている化仏である。ということは、本尊はバカでかいということになる。

本尊の手がこれである。さすが東大寺興福寺から名を取っただけある。7mほどある坐像だったらしい。

他にも巨大な像や絵がたくさんあった。「圧倒的スケール!」の謳い文句に間違いはなかった。

ちなみに、東京国立博物館は『半澤直樹』などのロケ地に使われた。ご丁寧にロケ地mapなるものも用意されている。

平成館には考古展示室というのもある。さすが東京国立博物館というだけあり、今回は有名な、青森の遮光器土偶が展示されていた。

高校日本史最重要史料である、江田船山古墳大刀もここに展示されている。

大安寺展。大安寺は大官大寺とも呼ばれる国家の寺で、日本最古級の寺院である。善光寺くらい古い。善光寺は地方寺院の割に日本トップレベルに古くて建物もデカいので、長野市民は感覚がバグりがちである。奈良時代の仏像は、何を考えてるのかよくわからない、のほほんとした顔をしているので好きである。

次は法隆寺宝物館である。明治時代、廃仏毀釈等による財政窮乏の折に、国からの見返りの金をあてにして法隆寺が皇室に献納した宝物がここに収められている。多数の仏教建築や仏教美術を毀損した廃仏毀釈は嫌いだが、法隆寺の宝物の一部を東京で見ることができているのは喜ばしいことである。

そんな中で、気になるのはこの仏像である。朝鮮半島の像だが、善光寺の前立本尊によく似た一光三尊像である。形式だけではない。印相、台座といった細部もよく似ている。違うのは、脇侍に独立した光背が付いていることくらいだろうか。同じ一光三尊像は東洋館の石仏にも確認でき、朝鮮半島における1つのトレンドであったのだろう。従って、善光寺本尊が朝鮮半島から渡ってきたという説にも信憑性が生まれる。なんとなく置かれているこの像が、絶対秘仏として全国の崇敬を集めた善光寺本尊の姿を最も正しく現代の我々に伝えているのかもしれない。

この点は東京国立博物館も指摘している。https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2011/05/28/本館11室と3室で善光寺本尊について考える/

善光寺の本尊自体は拝することは叶わないが、お朝事のごく短い時間、戸張が開いて宮殿の扉も開き、厨子を拝することができる。先日参拝してよく見てきたが、恐らく扉のない厨子であった。東大寺二月堂の小観音と同じで、開けることをそもそも想定していない厨子である。信仰心より好奇心が勝つ人間なので恐縮だが、いつか寺の経営が傾いたら金策として本尊ご開帳を敢行してくれないだろうか。

ところで、ご開帳の「開帳」とは文字通り戸帳(を主とする布)を開けて隠されたものを公開することであり、この世のほとんどの「ご開帳」は実際のところ「ご開扉」が正しいのではなかろうかと思った。

中2階には「デジタル法隆寺宝物館」があった。聖徳太子絵伝を常時、至近距離で拝観できるためにデジタルデータとして取り込んだらしい。博物館の新しい形を示すコーナーである。

上野駅公園口。気づいたら横断歩道が無くなっていた。

上野駅の終着駅としての面を示すホームである。「上野発の夜行列車降りたときから 青森駅は雪の中」という一節が有名であるが、現在は新青森駅があるので夜行列車に乗る必要はない。昔は特急列車が最速の移動手段だったが、それでも新幹線の倍以上の時間がかかっただろう。

上は、石川啄木の「あゝ上野駅」碑である。先日のダイヤ改正の際、引退する「草津」の車両を撮るためにこの碑に登った鉄道ファンがいたらしい。危険なだけでなく、上野駅の歴史的経緯を理解していないことを曝したに等しい。鉄道の歴史に興味がないまま鉄道の写真を撮っている鉄道ファンもいるのだなと悲しい気持ちになった。そもそも通常運行もラストランも車両自体は同じなのだから数日前に撮っておけばいいのに。

さて、現在はどうしても地球が狭くなり、海外ですら「また来ればいいよね!」となりがちであるが、昔は国内旅行でさえ「一生に一度の…」だったのである。18きっぷ旅をすると、それがよくわかる。不便を好むわけではないが、たまには不便を知ることも大切であろう。というか新幹線は速すぎるので特急くらいがちょうどいい。

今度「ぷらっとこだま」でも使ってみようかと思う。

3/11 古代を訪ねる旅④ 大神神社からの帰宅

続きです。

今日は大神神社に寄ってから帰るつもりなので、まずJR畝傍(うねび)駅に行った。畝傍は畝傍山の畝傍で、畝傍山、香具山、耳成山大和三山と呼ばれる。その三山に囲まれるように建てられたのが藤原宮である。

この畝傍駅神武天皇を祀る橿原神宮の最寄駅ということで、貴賓室が設けられていた。しかし最寄とはJRの中での話。近鉄橿原神宮前という駅ができてしまったため、近年皇族が橿原神宮に参拝する際は、専ら京都駅から近鉄で向かうのだという。畝傍駅を最後に使ったのは現在の上皇陛下、上皇后陛下のご成婚を報告した時らしい。つまり60年前である。

現在は無人駅である。貴賓室を備えた駅の末路としては寂しいが、出雲大社に向かう大社線、大社駅が廃線となってもうないことを考えればいくらかましである。

今は線路が二本だが、昔は三本あったようだ。おそらくどれかはお召し列車用だろう。

三輪駅で降り、大神神社に向かう。「おおかみ」でも「おおがみ」でもない。「おおみわ」神社である。御神体三輪山で、原始的な信仰の形を今にとどめる。なお、諏訪大社も守屋山が御神体である。

ここにも三輪小学校があるらしい。それもそのはず、長野市の美和神社は大神神社と同じく大物主神を祀っている。ただし最寄駅の名は「本郷」である。

三輪駅も大神神社の参拝者を受け入れる大きな駅だった。その痕跡が今は使われない検札口に表れている。祭の期間中というのに駅にはボランティアのおじさんしかいないし(通常は無人駅)、ここが使われることはもうなかろう。

三輪駅の隣の駅は巻向。まきむくとよむ。纏向遺跡の纏向で、車窓からは箸墓古墳が見えた。ここが邪馬台国かもしれない。「邪馬台国」「卑弥呼」は魏の人が音を文字に表しただけであって、当時の日本でこの表記だったわけではない。「やまたいこく」は「やまとこく」、「ひみこ」は「ひめみこ」とすればヤマト政権の前身として大和にあった可能性が高い。邪馬台国論争にあまり詳しくはないし、昔の発音もよくわからないけれど。

帰ります。とりあえず、これで一気に浜松まで行く。浜松で浜松餃子を食べて帰る。今日中には帰れるだろう。

道中の感想は①と被るので書かない。豊橋駅で「あん巻き」を買った。推奨消費期限は当日らしいので、現地で食べるのが一番いいだろう。カスタード、栗、抹茶などいろいろな味がある。どら焼き生地で巻いてあるのかと思ったが、卵を使っていなかった。

浜松で浜松餃子を食べた。

学習のためとはいえ、山寺にわざわざ登ったり、高い拝観料を払ったり、真言までしっかり唱えたりと、「敬虔な信者ムーブ」をしたものだと思う。この旅行で得たご加護で今後何かいいことがありますように。

明日は東進の東大合格祝勝会に運営として参加。渋谷のセルリアンタワーで行われる。対面実施は筆者が合格した年以来となる。

3/10 古代を訪ねる旅③薬師寺、唐招提寺、東大寺、平城宮

続きです。

5時間睡眠の状態で23kmも歩いたので、さすがに体調が最悪になってしまった。そろそろ無理をしてはいけない歳であることを自覚しなくてはならない。

当初は飛鳥に行く予定だったが、今の状態で遺跡を見ても不勉強を晒すだけなのでおとなしく寺めぐりをすることにした。

薬師寺

まず向かったのは薬師寺である。訪れたことはあるので当初行かない予定だったが、食堂や西僧坊、西塔初層などを公開しているということだったので行くことにした。特に西塔初層は生きているうちに見られるかわからなかったので嬉しい。

薬師寺は天武・持統両天皇によって建てられた寺院である。これは平城遷都にあたって移転したもので、藤原京時代の薬師寺は本薬師寺という別の寺院になって今も残っている。なお、今の薬師寺は東院堂、東塔などを除いて焼けたため、近年の建築である。東塔は奈良時代の建築が残り、国宝。フェノロサが「凍れる音楽」と評したことは有名。

薬師寺は中学の修学旅行で訪れたことがある。法話を聞いたが、こんな話が印象に残っている。

「これは西塔(さいとう)っていいます、斉藤さんとかいたりする〜?」

(手があがる)

「おお、いてはるね。400年前に焼けました」

なお、金堂(こんどう)も焼けているが近藤さんがいるかどうかは聞かれなかった。

このとき、時間がないという理由で7組の筆者は本尊の薬師如来像を拝することが叶わなかった。法隆寺でも大講堂に行くことが叶わず、両方とも5年後にリベンジした。

金堂の裏には大講堂がある。薬師寺東大寺などといった官営の寺院は、近所の寺のように檀家を持っているわけではない。僧侶を育成する学問の場なので、講堂や食堂(じきどう)がある。全寮制の学校という表現が適切であろう。

大講堂の本尊は弥勒如来である。弥勒といえば、国宝第一号である京都・広隆寺弥勒菩薩像が有名であるが、これは如来である。弥勒とは56億7000万年後に悟りを開くと言われている仏で、今は菩薩であるが、如来の姿を表した像も存在する。

西僧坊では東塔に関する展示が行われており、薬師寺東塔檫銘も展示されていた。これは筆者が、卒業論文において「太上天皇」号が大宝令に存在したことを主張するために使用した史料でもある。

薬師寺のメイン、白鳳伽藍の裏には玄奘三蔵院伽藍がある。これは唐の僧で『大唐西域記』を著し、薬師寺も属する法相宗の開祖でもある玄奘三蔵を祀る伽藍である。西遊記三蔵法師と同一人物。八角円堂は個人を祀る堂である。なお、円周率が3.05より大きいことを証明するには最低でも12角形である必要があるようだ。

唐招提寺

次に向かったのは唐招提寺である。初訪問。前回薬師寺を訪れた際は、猛暑の中平城宮跡を4時間歩き続けたせいで行く体力が残っていなかった。

国宝の金堂。中心に毘盧舎那仏(東大寺の大仏と同じ)、左に千手観音、右に薬師如来が安置されている。千手観音は実際に千本の手を生やしたものである。一般的な千手観音は、1本の手が25の世界を救うため40本+合掌の2本、の42本であるため、大変珍しい。他には大阪、葛井寺の千手観音坐像は実際に千本の手が生えている。

裏にある大講堂は元は平城宮朝集殿であり、今も残る平城宮の建物としては唯一のものである。

なお唐招提寺には修学旅行生が来ていた。いい学校!

東大寺

久々に二月堂が見たくなったので東大寺に向かう。バテ気味なので、境内に入る前に奈良の伝統寿司盛り合わせを食べた。保存のために酸っぱめなので、疲労回復にとてもいい。

さて二月堂に向かったが、折しも修二会期間中で堂内に入れなかった。しかし、東大寺ミュージアムや奈良博にて修二会の貴重映像や小観音厨子の複製を見ることができたのでよかった。

二月堂は大仏殿の北東に位置する堂である。善光寺本堂を大仏殿としたら、城山動物園くらいの位置。本尊は二体の十一面観音(大観音、小観音)だが、これは絶対の秘仏である。絶対の秘仏とは、これまでも(秘仏になってからは)誰にも見せたことはないし、これからも見せてはいけない、という意味。日本三大秘仏は二月堂の十一面観音と東京・浅草寺聖観音、そして長野・善光寺の一光三尊阿弥陀如来である。

法隆寺夢殿の救世観音は元々絶対秘仏だったが、明治時代にフェノロサ(前出)が、国家による調査であるといって無理やり開扉させ、麻布を外して秘仏を解いた。今は毎年春と秋に開帳されている。東寺御影堂の不動明王も同様である。100年以上人の目に触れなかったという意味でいえば、清水寺奥の院の三面千手観音像もある。

秘仏は、どう考えても一般の参拝者が近づける存在ではないのだが、ずっと厨子の前にいたくなるような、何とも不思議な魅力がある。

四天王で有名な戒壇堂が改修中で、代わりに千手堂が公開されていたので行ってきた。戒壇堂の四天王は現在東大寺ミュージアムに展示されているが、拝観は戒壇堂もミュージアムも600円なので、ミュージアムは他の展示物も豊富な分、いくぶんお得?かもしれない。

東大寺には1年に1日だけ公開される像がいくつかあるが、それら全てを拝するのが筆者の夢である。

平城宮

微妙に時間があったので寄った。専門といえば専門なので少し詳しめに解説しよう。平城宮は710年に遷都した平城京の中枢のこと。宮(=御屋=ミヤ)のある所(=処=コ)、でミヤ/コである。平城京といえば官人の居住区を含む、いわゆる一条二条といった範囲を指すし、平城宮といえば、天皇の住む内裏や官衙大極殿しか含まない。

(https://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/initiatives-heijo/about.html)

芥川龍之介で有名な羅城門は京の門、朱雀門は宮の門である。羅城門と朱雀門を結ぶメインストリートが朱雀大路。国家の威容を示す役割があるので非常に幅が広い。藤原京が放棄された理由はいろいろな説があるが、朱雀大路の迫力不足(狭い、門を出たら丘があるので見通しが悪い)が一因であったことはほぼ明らかである。

朱雀門前には天平/平城宮〇〇館とつく展示施設や食事処、お土産屋が整備されていた。中でも「天平みはらし館」ではVR上映が行われており、大仏造立をテーマにしたリアルなアニメを見た。平城京が再現され、聖武天皇橘諸兄に声がついている映像を見て感極まりそうになった。

平城宮跡は整備が進んでおり、いずれは大極殿を囲む回廊まで整備する予定とのことである。なお、平城宮跡はかなり歩くので友人や恋人と行って険悪になっても責任は持てない。

大極殿。対外的な儀式空間であり、当時は寺院くらいにしか使われていなかった先進的な建築様式を採用している。ここで再現されている大極殿は藤原宮の大極殿を移築した「第一次大極殿」である。これは聖武天皇が740年代にあちこち遷都した際、恭仁宮の大極殿として移築され、そのまま山城国国分寺の金堂となった。律令制定を共に祝った日本最初の大極殿は、再び日本の中心となることはなくその生涯を終えたのである。

なお、仁和寺の金堂が元紫宸殿であるように、宮廷建築はわりと色々な所に下賜されている。

平城宮跡は、遷都後だんだんと荒れ果て、1000年も経つと農地になっていた。平城宮跡を確定するため、明治時代に関野貞という建築学者が調査した際、地元民が「大黒芝」と呼ぶ高台を発見した。これはつまり「たいごくでん」が転じて「だいこく」となったものであると考えた関野は、ここで大極殿跡の発見に至るのである。難波宮跡を発見した山根徳太郎博士の情熱も、心を打たれるものがある。

ところで、史跡の保存というのはしばしば現代的な利益と相反する。家を建てようと思った土地に重要な遺跡が発見されてしまっては土地の所有者としてはたまったものではない。実際、遺跡による工事の遅延や中止をきらって遺跡を見つけても壊してしまうこともあるという。「保存か開発か」問題としては、高輪ゲートウェイ駅付近の鉄道遺産、高輪築堤が記憶に新しい。

遺跡なんてそこらじゅうにあるのだから、全てを保存する必要はないと思うが、遺跡は一度失われると2度と戻らない。例えば、藤原宮の内裏構造がわかれば律令国家成立期の様子がもう少し明らかになるのだが、池にされてしまっているのでもう2度とその建物配置を窺うことはできない。これからの遺跡のためにも、共存の道を模索したいものである。

近くに平城天皇陵と称徳天皇陵があったため、論文で使わせてもらったお礼にお参りに行ってきた。いつか夢に出てきて色々教えてもらえるとありがたい。ところで、歴史上の人物は歴史学研究者をどのように思っているのだろう?自分なら正直ウザいと思う。

天皇陵は立ち入りができないため、丘を外から拝することになる。

3/9 古代を訪ねる旅②伊勢神宮、室生寺、長谷寺

続きです。

伊勢神宮

快活で起床し、禊(つまりシャワー)を済ませるとすぐさま快活を出た。6時15分。代金は1440円だった。激安。あまり寝心地がよくないため早起きできるのも良い。

まず向かったのは外宮である。外宮は豊受大神宮とも呼ばれ、内宮におわします天照大御神の食事を司る神。天照大御神はもちろん、皇室の祖先神であり日本で最も重要な神様。

長野市戸隠山は、天照大御神が引き籠った岩屋の扉であるという。

ちなみに長野の諏訪大社は上社と下社に分かれ、上社は本宮と前宮に分かれるが、本宮と前宮には序列がある。分掌のありかたは違うが、この点ではとてもよく似ている。

伊勢神宮には式年遷宮という行事がある。20年ごとに社殿、神宝を造替するのである。ゆえに建物自体は文化財ではない。20年というのはおそらく1世代のことで、20年に1度建て替えれば、造営のノウハウが次の世代に脈々と継承できるのであろう。内裏などは、焼けて再建する際にどう建てていいかよくわからない、というケースがあったので、合理的なやり方だと思われる。式年遷宮とはどういうものか、下の写真を見るとわかりやすいだろう。

バスにて内宮に移動する。さすがに早すぎてどの店もやっていなかったので、赤福本店で朝食を摂った。

良い門前町である。

いよいよ内宮に入る。まず気になったのが下の建物。左が御酒殿、右が由貴御倉というが、「由貴(ユキ)」が気になる。大嘗祭の費用を賄うために指定される地域を「悠紀・主基(ユキ・スキ)」というためである。国史大辞典によると、ユキとは聖域という意味らしい。古代は音が大事なので、(当て)字が違うのはあまり気にしない。

御稲御倉も興味深い。高床式倉庫で、ちゃんと「カギ」も付いている。

そもそも伊勢神宮の殿舎の構成がかなり大嘗宮に似ている。もちろん掘立柱建物の神明造は明らかに共通しているが、殿舎の配置もどこか似ているところがあった。神社関係については不勉強なので、それらしいものを見てもあまり明快な解答を導き出せないのが残念であった。

寺もいいが、古代を感じるという点ではやはり神社に勝るものはない。法隆寺薬師寺などの寺院でも古代を感じることはできるが、神明造の神社は、天皇制を基礎づける原始的な祭祀のあり方(祭=祀=政=まつり)を現代に伝えてくれるという点で、より日本の歴史を感じることができると思う。

と思っていたら、神域を散水車が走り抜けていった。

1店だけ開いていたので、伊勢うどんをたべることができた。とても柔らかい。何より、安い。これで600円である。観光地の名を冠した食べ物なんて1000円取ってもおかしくないが、伊勢は非常に良心的である。

室生寺

奈良に向かう。まずは室生寺である。室生寺は女人高野とも呼ばれ、古くから信仰を集めてきた。教科書なら「弘仁・貞観文化」のコーナーで取り上げられる。一木造の薬師如来像など有名な仏像も多い。

室生寺は「室生口大野」駅からバスで14分の場所に位置する。しかしこのバスが問題で、1-1.5時間に1本しか運行しない。1時間ほど待たされる羽目になったので、近くの「大野寺」に行った。何やら大きな磨崖仏(岩に彫った仏)があるらしいので、栃木県の大谷観音ばりのものを期待して見に行った結果が以下の通りである。

なるほど、もしかしたら磨崖仏かもしれない。ただの岩と言われても全く違和感はない。ただあると言われればたしかにそこにある気がするのである。いわば、「相対的磨崖仏」といったところであろうか。

ようやくバスが来たので長谷寺に行く。バス待ち中に、一人旅に来た熊本出身のご婦人と仲良く?なったので金堂まで一緒に行った。

教科書の通りなので感動した。想像して見てほしい。いつも画面越し、写真越しでしか見たことがない好きなアーティストや芸能人を生で見た時の感情を。それである。

金堂の中に入ると、お馴染みの釈迦如来像、薬師如来像が静かに立っていた。少し石段を登ると本堂がある。

綱吉生母、桂昌院と関係があるらしく、本尊は如意輪観音であった。参拝者(主に女性)の悩みを聞くために、常に開帳しているらしい。

さらに石段を登ると、五重塔がある。日本で2番目に古いというすごい塔なのだが、小さいということでも有名である。実際見てみると、どう考えても人が入れなそうなくらい小さい。

さらに上がると、奥の院があるらしい。高野山金剛峯寺にも、弘法大師が眠る奥の院がある。階段700段とのことだが、頑張って登る。

頂上に着いた時には汗ダラダラになっていた。若いお坊さんが説明してくれたので、直前まで他人と喋っていたこともあってか、「奥の院行くのって、経験積めば慣れるんですか?」と聞いてみた。「全然慣れないです」との答えだった。これから長谷寺行くんですと言ったら、「長谷寺は400段くらいしかないですけど一段あたりが小さいので精神力が必要です」と教えてくれた。

この辺りで足が蒸れてきて、歩くと痛い。これも修行だと思い長谷寺に向かう。バスが少ないので行きで一緒になったご婦人とまた喋り、方向が同じだったので電車も一緒に乗った。本人は花粉症ではなく、旦那さんが最近花粉症になりはじめたとのことだったので、「労わってあげてください」と伝えてきた。花粉症でない人が心底羨ましい今日この頃である。

長谷寺

長谷寺真言宗豊山派の総本山。長谷寺駅が最寄りであるが、この長谷寺駅、とんだ詐欺である。高低差が激しい道を20分歩き、やっと長谷寺に着く。確かに「長谷寺前駅」とは言っていないが、「長谷寺駅」と付けるのも憚られるくらい遠い。「(他の駅に比べれば相対的に)長谷寺(に近い)駅」という意味だろう。「相対的長谷寺駅」である。

長谷寺は鎌倉にもある。そして意外なことに、長野にもあるのである。稲荷山駅から徒歩10-20分ほどの風情ある山寺で、十一面観音が本尊。奈良、鎌倉と並んで「日本三所長谷観音」と称されているのだから驚きである。

https://www.hasedera.net

奈良の長谷寺は、長い登廊が特徴。これを登った先に本堂がある。

本堂は清水寺のような懸造。(https://www.yomiuri.co.jp/hobby/travel/ryokou-select/20210506-OYT8T50038/より引用。普通に歩いていると木が邪魔でいい感じに懸造が撮れない。)

特筆すべきは、本尊の大きさである。なんと10メートルあまりある。鎌倉も同様に非常に大きい。奈良長谷寺の特徴として、「本尊に触れる」ことがある。拝観料1000円を払えば、本尊の足に触ることができ、内陣にも入ることができる。一見高いが、十分その価値はある。

帰り際、あまりに足が痛いので日帰り入浴させてもらった。

今日の宿は快活クラブ橿原店である。昔は平城京の下級官人がこのあたりに住んでいたかもしれない。

3/8 古代を訪ねる旅①伊勢移動日

3/7にキャンパスに出向き、大学院入学書類(といっても入学金振り込みの控え)を提出してきた。早く帰省を終わらせたのはこの書類の提出のためである。

ところで、3/8から3/11までは完全なるオフであり、18きっぷもあと4回分残っている。3月中旬・下旬は長い休みができそうにもなく、この4日に少しでも使わないと18きっぷのフル利用が危ない。

ということで、旅に出ることにしたが困るのは行き先である。東北、北陸、近畿と迷ったが、近畿地方の寺社を巡ることにした。

いい場所に快活クラブが存在することは確認したので、宿もとらず旅程を決めた。

3/8 移動日。沼津で寿司を食べ、名古屋を経由し伊勢へ。伊勢の快活泊。

3/9 早朝伊勢神宮に参り、室生寺長谷寺を見学して橿原の快活泊。

3/10 飛鳥を巡り、東大寺の二月堂を見てちょうどいいところに泊まる。

3/11 移動日。途中で浜松餃子を食べたい。

①沼津

上野東京ラインに乗って熱海に向かい、東海道線で沼津。筆者の家は東京駅より北にあるため、通勤時間帯とあって混雑していた。しかし東京駅で一気に人はいなくなり、ボックス席に座ることができた。

2時間弱かけて熱海に着く。熱海は大学1年の夏、幻となってしまったオリ合宿の下見と称して同クラと行った場所である。

鬼怒川と並び、首都圏からの旅行先として有名だったが、交通手段の発達で日本が小さくなってしまったためか、最近は「熱海に旅行に行った」とはあまり聞かない。

熱海から20分ほどで沼津に着く。沼津は国府津から出る御殿場線の終着駅である。御殿場線箱根山を北回りで結ぶ路線であり、元の東海道線である。しかし旧信越本線同様、勾配がきつかった。

ゆえに、丹那トンネル(熱海ー函南間の長いトンネル)を掘れたことで熱海ー沼津ルートが完成するとそちらに取って代わられたのである。

しかし、東海道本線信越本線を比べたとき、「なぜ信越本線はトンネルを掘らなかったのか?」という疑問が浮かぶため今後の課題にしたい。

沼津の目的は「魚がし寿司」である。高校同期がおすすめしていたので本日の昼食スポットとした。

まずは、ランチセットで一番いいやつ(2000円強)。ネタが大きく美味しい。

しかし、せっかくならば地元のネタも食してみたいものである。胃袋には余裕があったので近海八種握りセット(1000円強)を頼んだ。桜えびや生しらす、カツオなど、静岡らしいネタが並び大満足だった。

これだけ食べても3300円ほどだったので、完全にす◯ざん◯いを超えている。タ◯ノフルーツ◯ーラーで買う1玉1000円超えの桃より長野市の農協で買った桃の方が美味しく感じるように、やはり現地でその地の名産を食すというのは良い。

熱田神宮

静岡には「草薙」という駅があり、その少し名古屋側には「焼津」という駅がある。焼津の語源は、記紀に記される以下のエピソードである。

"景行天皇の子、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が全国征伐に出向いた際、この地で敵が草原に火を放って日本武尊を殺そうとした。その際、携えていた天叢雲剣で草を切り、窮地を切り抜けた。"

そしてこの時天叢雲剣で草を薙いだことから、「草薙剣」という名になったという。むろん三種の神器の一つである。草薙駅もこのあたりが語源かもしれない。

なお、三種の神器のうち草薙剣を祀っているのがこれから向かう熱田神宮八咫鏡を祀っているのが明日向かう伊勢神宮である。

ちなみに、浜松ー豊橋間に「御厨」という駅があるが、御厨とは神社の経費を賄う領地である。静岡の御厨は伊勢神宮の所領。長野市川中島にある御厨はどこの所領であろうか。

熱田神宮。宝物館や草薙館といった施設で刀剣が多く展示されているので、刀剣好きはぜひ行ってみてほしい場所である。

境内にはこのような神社もある。形としては完全に弥生時代の高床式倉庫である。伊勢神宮も同じで、こういった昔ながらの様式を堅持していることも空間の聖性を高めていよう。

名古屋名物の油そば、歌志軒。春◯亭や武蔵◯アブラ◯会よりもここの油そばの方が好き。

近くに「きよめ餅」という銘菓があったので買ってみた。

せっかく名古屋に来たので、高校同期Tに会った。進学祝いということで良さげな衣料用洗剤をもらった。ありがとう。あと3日間持ち歩きます。

名古屋駅は2つのタワーが目立つ。非常に近代的な感じがして、とても好きである。ちなみに1番好きなのはJR京都駅。

伊勢市

名古屋から最後の「快速みえ」に乗って伊勢市に向かう。これは伊勢市行きだが、途中私鉄を挟むため普通列車に乗り換えなければならない。

四日市で降りる。四日市とはいうまでもなく三斎市である。毎月4がつく日は市を開きますよ!というものである。他にも二日市、六日町、十日町などの地名があるが由来は同じである。

なお四日市市には、四日市ぜんそくというあまり喜ばしくない歴史もある。

伊勢市行きの最終電車に乗っていると「あこぎ駅」などという駅名が耳に入ってきた。調べてみるとどうやら、「あこぎな商売しやがって!」の「あこぎ」の語源だそうである。阿漕とは、たびたび密漁をして海に沈められた人の名前なんだとか。

23:16、伊勢市駅に着いた。長野と並び称される門前町だけあって、かなり雰囲気がある。

さて、筆者はもちろん宿は取っていない。こんな時間に着いて、明日の朝早く伊勢神宮を参拝するのに宿なんか取っていたら勿体無い。一人旅の味方、快活クラブである。

しかしこの快活クラブ、車を想定しているのだろう、駅から3キロほど離れている。しかも神宮とは反対方向だ。神宮までは歩いて1時間20分かかるらしい。まあ、明日の朝時間をかけて参拝したほうがありがたみも増すというものであろう。「この参拝者の誰よりも苦労してここにたどり着いているのだ」と胸を張ることもできよう。

古代を訪ねる旅、明日が実質初日です。

伊勢市の路上にて