龍、竜、ドラゴン

旅行2日目。8時30分くらいに三ヶ日駅に着く。みかんで有名な三ヶ日だが、駅前は割と閑散としている。

駅名標はみかん。

レンタサイクルを借りて、5分ほどかけて浜北惣社神明宮に向かう。これはいわゆる総社ではなく、元は別の神を祀っていたものを天照大御神を祀るようになったものらしい。

確かに神殿が古風な建築で、古代史の人間としては面白かった。

拝殿の傍から本殿を拝することができたのが良い。建築年代は明記されていなかった(それともわからないのだろうか)が、重要文化財らしい。

帰り際に、紙垂が1つだけ揺れていた。歓迎してくれているのだろうか。

そこから自転車でさらに5分北上すると、今回の旅の目的地、摩訶耶寺がある。

開創1300年記念ということは、まさに筆者の専門とする奈良時代、726年に創建されたということになる。建物は江戸時代、今回の本尊は鎌倉時代の作だが、庭園が日本最古級のものらしかった。

本堂には回向柱が立つ。なお、長野県民たるもの回向柱と御柱は間違えないようにしたい。

本尊(それどころか堂内全て)はなんと撮影可能だった。

本堂内を、それも秘仏を撮影できるというのはあまり聞いたことがない。まあもっとも、なぜ堂内を撮影してはいけないのかということから考えなければなるまいが、書いていたら長くなったので別記事に回します。

なお、左右の閉じている宮殿(ぐうでん)は曼荼羅を収めていて、新しい作だが基本的に公開しないらしい。元は宝物館にある千手観音と不動明王があったらしいが、聖観音の脇侍に千手観音を配するのは聞いた事がなく、造像年代も違うのでそれぞれ由緒が異なる仏なのだろう。

それよりも、本尊の前に五大明王がいる方が珍しい。

三ヶ日を出て、金指に向かう。これもレンタサイクルを借りて、まずは龍潭寺に向かった。

昨日発売のスンスンがまだセブンに残ってて神だった。

さて、龍潭寺は井伊直虎で知られる井伊家の菩提寺らしく、奥には霊屋もあった。宗派はさすが武家らしく臨済宗。小堀遠州の作事と言われる庭が有名である。

本尊は虚空蔵菩薩で秘仏、前立ちに釈迦如来だった。本尊と前立ちが違うこと、臨済宗寺院の本尊が虚空蔵菩薩であること、虚空蔵菩薩が秘仏であること、全てが珍しい。

ところで、拝観料を払う際に「お二人様ですか?」って聞かれたんだけどなんで?近くに他の観光客もいなかったし、怖。

次に向かったのが渭伊神社である。これは古代からある神社だが、目的は社殿というよりもその奥、磐座である。磐座とは、原始から行われた自然信仰の一環で、大きな岩には神が宿るというアミニズム的思考に由来する。沖ノ島が有名だが全国に磐座はある。

渭伊神社の裏山を少し上ったところにある磐座は天日磐座遺跡といい、実際に古墳時代~平安時代の祭祀遺物が発掘されているらしい。

そこから自転車で15分、竜ヶ岩洞に向かう。

「銀座」?

最後の坂に心が折れたので歩いて登る。登ったところで老夫婦とすれ違い、「自転車?すごいわねえ」「25歳?もっと若く見えるわねえ」などという感想をいただいた。

最近、自分が若いのだか若くないのだかよくわからなくなってきた今日この頃である。

この洞窟は、もとは採石場だったところに戸田貞雄という人物が開発を行い、開通させたものらしい。開発時74歳。虫とかいたらいやだなあとかしょうもないこと思っていてすみません

洞内見どころマップ

中はめちゃくちゃ広い。説明は、「こんな形に見える鍾乳石」という意味だが「28 黄金の大滝」はガチの滝。

平日ということもあって、前後になかなか人がおらず怖い。前の方に人がいるかなーと思ったら水の音だったりする。水の音も反響して人の声みたいに聞こえるし。

でも洞内は綺麗。

金指駅に戻り、遠州鉄道を経由して浜松城に向かう。遠州鉄道は新浜松(JR浜松駅近く)~西鹿島(天竜浜名湖鉄道と接続)を結ぶ電車で、それなりに都会を走るが、乗務員(駅員ではなく)が降車時に切符を確認するオペレーションでびっくりした。まあ地元密着型鉄道なのでそれでも良い気がするが。

地元密着型鉄道なので観光地へのアクセスはあまりよくなく、「遠州病院」駅から徒歩15分程度で浜松城に着く。近くには浜松市役所があり、城を建てるような土地には官公庁が集まるよな、という実感を新たにする。

浜松城は石垣が元の姿を留めていて、軍事的な防御施設であることを窺えて面白い。

天守も櫓門も、駿府城と同じく残念ながら観光用の復元だったが、駿府城のように天守台が破壊されていなかったので、天守の形がよくわかって面白い。

さて、この時点で16:00。実は18:00からバンテリンドームナゴヤで行われる中日ドラゴンズの試合のチケットを取っている。新幹線なら間に合う、在来線なら2500円を浮かせられる代わりに1時間遅れる...

新幹線を取った。17:45にバンテリンドームに着弾。

今日の席はライト外野ドラゴンズ応援席。外野席は立って応援する席で、リセールとにらめっこしてなんとか手に入れた。なぜそこまでしてドラゴンズのチケットを取るかというと、応援歌がかっこいいからだ。一度、大声でドラゴンズの応援歌を歌ってみたい。それだけの理由で、浜松から名古屋に向かい、名古屋から直帰するのである。

ドアラは何を考えているかわからない目がかわいい。タオルを買った。

「けっこう勝ってるじゃーん」と思ったら空席状況だった。それは×であれ。

増えていくドアラ(中日ドラゴンズ公式マスコット)。

クローザー松山晋也。

途中長いイニングがあったので試合の最後まではみれずに帰宅。細川・石川の応援歌と「打ち砕け」を歌えたので大満足。次は東京ドームのドラゴンズビジター応援席に行ってみようかな。

静岡は東西に長い

数少ない本ブログ読者の皆さんは、GWをいかにお過ごしだっただろうか。

私はといえば、5月9日に東大を目指す高校生相手に50分の講演をすることになっていたり、16日に国際東方学者会議という格式高い国際学会(私は格式高くない。念のため)で報告の機会を頂いていたりと、「のんびり」なんてしている余裕はなかった。

ようやく学会も終わり、というか無理やり終わらせて、学振(※)も出し終わり、束の間の休息になった。折しも木曜のゼミが休講になったので、旅行に行くことにした。

※学振:大学院生の懐事情を決する大事な書類のこと。

旅行といってもむつかしい。いつも行っているところでは芸がないし、真新しいものもない。とはいえ仙台以北とか京都以西とか遠方になると1泊2日では勿体無い。

などということを考えていたら、こんなポストが目に入った。

https://x.com/butsuzolink/status/1902691595641839746?s=46

もとより私のXは野球とルセラと秘仏くらいしか流れてこないのだが、初公開はアツい。なお、秘仏は好きだが仏教史・寺院史は難しいので敬遠している。

先の北向観音(上田)ご開帳にも行った。秘仏のために旅行したことはなかったが、静岡はずっと通過していたし、ガッツリ静岡を回ってみることにした。

利用したのはJR東海の「ぷらっとこだま」。切符ではなく旅行企画商品で、乗車変更はできないが、安価でグリーン車にアップグレードできたり、旅先で使えるクーポンが使えたりする。

なお、320円以下の飲料と引き換えられたりもするが、旅先で使えるクーポンの方が圧倒的にコスパがいい。ちなみに今回は1000円得した。

https://travel.jr-central.co.jp/service/info/kodama/p1.html

グリーン車。快適。

1時間30分程度で静岡駅に着く。そういえば、静岡駅は18きっぷの乗り換えで使ったことが数回あるものの降りたことはなかった。

最初に向かったのは、駅からバスで10分強の登呂遺跡である。これはかなり有名な遺跡で、日本で初めて弥生時代の水田稲作遺構が見つかった場所。

中学受験サイトを見てみたら、吉野ヶ里と登呂の2遺跡が重要な遺跡として扱われていた。

とはいえ、集落の規模としては長野県立歴史館と同じか少し小規模なくらい。

この構図が良いので(自画自賛)わかりやすいが、建物の下には盛り土がなされている。ここは湿地帯だかららしい。

これは祭祀用の建物とのこと。祭祀の時、中には誰がいて何をしていたの?という疑問はあるが、立地条件や建物構造に関する発掘調査結果からして、単なる高床倉庫ではなく祭祀用建物であることは納得した。

隣接する博物館には、竪穴住居の復元展示や出土遺物の展示がある。

土器や石器の形については、私は考古学の専門家でないので全くわからない(※)が、竪穴住居の中の匂いは長野県立歴史館と全く同じだった。違う点は、コンセントがあることくらいだろうか。

※形状や紋様で大体の時期を特定する土器編年というものがあるらしい。発想はわかるが現物を見て「これは◯型だ!」なんてわからない。

駅に戻り、北口側の駿府城へ。駿府城は徳川家康が幼少期(今川人質時代)、壮年期(豊臣政権時代)、老年期(大御所時代)と3回過ごした城で、元は今川の城、最後は将軍を退いて「大御所」となった家康が政治・外交の中心とした城であった。

しかし戦後に駿府城の敷地は野球場や市民会館となり、現在再び復元されている。やはり再整備が入ってしまっているので近代の公園みたいな動線(曲線中心の歩路)だったが、工事して城時代の導線に戻すらしい。

ぷらっとこだまのチケットは、駿府城公園で使った。入場料360円、お茶700円で、しめて1060円なり。

お茶の品種とか全然わからないけど美味しい。

花の品種とか全然わからないけどきれい。

櫓の2階が博物館になっていた。細長いから普通の博物館みたいに回ることができ、見やすい。

駿府城跡を一周して静岡市歴史博物館へ。

静岡市歴史博物館。古代史の民としては、駿河国府とか国分寺とかの展示を期待したのだが完全に家康・駿府城博物館だった。

今日の宿は浜名湖の北、三ヶ日温泉に取ってあるので掛川までJR、掛川からは天竜浜名湖鉄道で向かう。私は地域住民のニーズによって支えられているタイプの地方私鉄が好きだ。

2両編成だが、後ろ1両は回送らしい。なぜ?と思っていたら拠点駅の天竜二俣で後ろを切り離すとのこと。なるほど?

天竜浜名湖鉄道は、浜名湖を挟んでJRと並行する路線で、営業キロ数は67.7キロ。長野電鉄が33.1キロなので、ちょうど2倍くらいだ。

第三セクターの車両基地(拠点駅)は大体中間地点にある(長野電鉄は須坂駅がそう)。

この路線は天竜二俣が拠点で、1両が基本単位なので転車台がある。

浜名湖佐久米という駅で降りて、今日の宿に向かう。

16:00に出て18:30に着いた。静岡の東には三島や熱海もあると考えると、静岡は東西に長すぎる。

なかなかいいところ。2枚目の船が個人的にポイント。

明日は目的地のお寺に行き、鍾乳洞に行き、浜松城に行き、そして夜は中日ドラゴンズを救ってくるとしよう。

水戸は愛おし、いと遠し

私事ですが、先日3月13日に誕生日を迎えました。お祝いのメッセージをくれた方はありがとうございます。ありがたいですね。同時に、自分もみんなの誕生日をもっと祝おうと決意しました。たんおめメッセージが来ても既読無視しないでね。

さて、誕生日となると、ちょっと考えたいのは過ごし方なわけで。

前日と翌日はそれぞれ予定が入っているので泊りはできないなあ、ということで、日帰り旅行先として選んだのが、水戸だった。

そういえば偕楽園にも行ったことがないし、弘道館や水戸城なんかもあって面白そう。そんなことを思いながら、特急「ひたち5号」の切符を取った。

朝9時、少し空いてきた京浜東北線に乗り上野に向かう。上野の次がすぐ水戸ということで、悠々と本を読んでいたのだが、土浦あたりでアナウンスがあった。

この先、内原駅付近で踏切内の事故が発生しました。この列車は運転を見合わせます。なお、運転再開の目途は立っておりません。

1時間おきに出る「ひたち」号だが、1本前の「ひたち3号」が事故にあったらしい。しかも、水戸に向かう道中で。我々は高浜駅で降ろされることになった。水戸には行けそうになく、友部が限界らしい。

高浜駅周辺を見ると、どうやら古墳がたくさんある。ただこれだけでは、えらく時間がかかりそうな運転再開まで耐えるのに弱いな。

と思っていると、隣の石岡駅周辺には国分寺・国分尼寺・国府があるらしい。これだ!ということで石岡駅で降りてみる。

※なお、2時間以上遅延したので特急券は払い戻された。

長野も思い出すような、なんとも落ち着いた駅前で、15分ほど歩くと常陸国分寺があった。国分寺にも何パターンかあって、①史跡がそのまま整備されている所(武蔵・信濃・相模など)、②跡地に寺が建っている所(阿波など。武蔵・信濃は近くに「国分寺」があるが、遺跡に重なってはいない)、といえるが、これは後者である。

精確には門と金堂の間に現本堂が建っているのだが、伽藍の全体像が見渡せない。そして、少し小規模な気もした。

続いて、バスに乗り「風土記の丘」に向かう。土日は直通バスがあるらしいが、平日は最寄りが「村上」というバス停で、そこから歩かなければならないらしい。

♪闘志あふれる一打 今こそ放てよ
♪村上!村上!村上!村上!
♪選ばれし猛者集う地で 強く咲く大輪
♪肥後より携えし力 今こそ解き放て

今年のヤクルトはどうなってしまうんでしょうね。

15分ほど歩くと、「風土記の丘」に着いた。

「風土記」は、奈良時代に地方の風土に関する情報を中央に上申させるために編まれたもので、令制国それぞれに編纂されたと考えられているが、そのほとんどは逸失し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損で残るにすぎない。『常陸国風土記』はその貴重な一例で、当時の国司であった藤原宇合が注力したとも考えられており美麗な文章で知られる。

埴輪がかわいかった。

残念ながらあまり風土記要素はなく、そこは期待と違って残念だったが、鹿の子史跡公園が興味深い。この遺跡公園は、後述する国分尼寺(上記地図も参照)付近で発掘されたものを、この山奥で復元しているとのことだった。

この遺跡は鍛冶施設が多いことから、武器の精錬などを担う工房と考えられており、蝦夷政策の前線拠点としての性格が強いものと考えられる。しかも、一帯を全てカバーしようという復元はなかなかなく、石岡市の心意気が感じられて素晴らしかった。やっぱり、竪穴式住居とか高床式倉庫とか、文化財行政ではそのあたりを復元してしまいがち。

近くには、巨大な獅子舞の頭があり、展望台のように中に入ることもできた。お金がある自治体なのかしら。

都市部に戻り、国分尼寺に向かう前に、お腹が空いたので町のお寿司屋さんに向かった。「自分で選ぶおもしろランチ」というメニューがあり、自分の好きな8貫にカスタマイズできるらしい。楽しい。

ちなみにサイコロは外れたし、「今日誕生日なんですよぉ〜🥺」なんていう姑息なマネもしませんよ。潔く負けてきました。

美味しかったので&誕生日なので、手巻きも追加で頼んだ。

最後に、「実は人身事故で偶然下りて観光してるんです、いい街ですね、美味しかったです!」といって退店すると、ずっと険しい顔をしていた大将が笑顔になってうれしかった。

ということで国分尼寺へ。よく整備されていて、規模感がよくわかる。ちょうど国分尼寺の裏に鹿の子遺跡があり、国分尼寺の脇には造仏所があるので、金属・精錬系の「工業団地」だったのだろうか。

次に、国府に向かう。国府周辺の地名は「府中」といい、東京にも府中があるが、以前説明した通り、「府」とは「国府」の意味であり、全国随所に存在し得る地名である。現代風に言えば「県庁前」といったところか。同様の現象は、「大手」「国分」などにも見られる。前者はお城の大手門、後者は国分寺にちなんだ地名である。東京には「大手町」駅(江戸城の大手門)があるし、新潟には「長岡大手」高校(長岡城の大手門)がある。松本にも「大手」という地名がある。

国府は小学校の校庭から出土し、敷地内に資料館があるらしい。入ってみよう。

…危ない。別の入り口から入りそうになってしまった。「【速報】東大生の男(25)、茨城県の小学校に不法侵入で逮捕 「遺跡を見ようと思った」と容疑否認」とかになっては目も当てられない。

気を取り直して資料館へ。無料の施設で、出土遺物や国分寺の復元模型が展示されている。1階では、管理人らしいお爺ちゃんが数人、世間話に興じていた。良い。

少し歩くと常陸の総社宮。総社とは、国府の近くにおかれた、国の神々を分祀したもの。古代は神祇の力を重視しており、新任の国司は神々に挨拶をしなければならない。そのために、国府の近くに神々を集めよう!としたのが、その名の通り「総社」なのであった。

そうこうしている間に、運転が再開されたらしい。石岡駅に向かおう。

「国府公園」にあった謎の壮大な構造物。ステージでもなさそう..

有形文化財の多い通りらしく、綺麗だった建物。

なんかすれちがっただけで挨拶してくれるし、店の人も暖かくて素晴らしい街だった石岡。お祭りもあるみたいなのでまた来ようかな。よきハプニングでした。

ということで、水戸へ。残念ながら偕楽園の通常開園時間は終了していたので、1000円も払って夜のライトアップへ。

これはこれできれいだったが、見どころも多そうなので、次は昼に来てみよう。水戸城とか水戸東照宮も行ってみたい。

総じてよき誕生日だったかな。研究者としても、私生活でもよき25歳になれるように頑張ります。とりあえず、毎週入籍の投稿が回って来て心が持たない。

彷徨!飛鳥編

ゼミ旅行も終わり、勝手に後泊して単独行動。ゼミ旅行最終日は飛鳥だったのだが、なかなか1日で見切れるものではない。今日も飛鳥デーだ。

飛鳥・藤原地域は、現在世界遺産の暫定リストに加えられている。来年にも…とのことだったので、まだ空いているうちにぜひ行かれてみてはどうだろうか

飛鳥は、藤原京に都が移る694年まで、途中に滋賀・大阪方面を挟みながらも、ヤマト政権の中心地として稼働してきた都市である。藤原・平城・長岡・平安といった宮都は礎石建ちの豪壮な建物だが、飛鳥の宮は天皇1代ごと、場合によっては1人の天皇あたり複数営まれる宮だった。ゆえに小規模で、儀式空間も小さく、威容に欠けた。

(参考)平城宮跡の復元

飛鳥宮の想像図(https://www.pref.nara.jp/61023.htm)

飛鳥とは、藤原京の南、飛鳥川によって形成された扇状地を指す。そこに、多数の寺院や幾代もの宮が営まれた。

https://www.pref.nara.jp/61023.htm

今日歩いたルートはこんな感じ。青がバス、赤が徒歩である。結構無駄な動きをしたので、めちゃくちゃなルートになっている。

橿原神宮前駅からバスに乗り、向原寺に向かう。向原寺は、日本で最初に仏像が祀られた寺とも言われ、その仏像とは善光寺の本尊であるとの説がある。

善光寺縁起』によれば、百済から伝来した仏像について蘇我稲目物部尾輿で論争が起き、稲目宅を寺院にして仏像を祀ってみることになった。すると疫病が流行し、物部氏によって堂塔は焼き払われて仏像は難波の堀江に捨てられた。約50年後にそこを通りかかったのが信濃国人の本多善光であり、善光寺の開創となった。

↑よくわからないが、善光寺関連の何かだろう。奈良に限らず、昔は地域で講という信仰グループを組んで、善光寺やら伊勢やらに参っていた。今も、善光寺宿坊の「〇〇様 歓迎」をみると、どこどこの善光寺講、という団体名が見えることがある。

ここから5分ほど歩くと飛鳥水落遺跡(水時計の遺構)があり、埋蔵文化財展示室が隣接している。

なかなか充実した展示だが、個人的には塼仏がよかった。土で焼いた仏を壁一面に貼るものだが、高さが3メートルくらいある。

このころの寺院は大体焼けているので、金箔は剥がれ、ごく一部のみが発掘される。

キトラ古墳の再現展示。

8世紀に離宮として営まれた小墾田宮の井戸。なんと本物。

かなり充実していた。人が居ないのが勿体無い。御年75歳のボランティアガイドさんが丁寧に案内してくれた。飛鳥はボランティアガイドさんが多い。「暇してるならボランティアガイドやらないか?」と友人に誘われたらしい。

次に甘樫丘に向かうが、閉鎖中だった。実際、この時期は蜂が多いので確かに行きたくはない。

飛鳥川を遡って、橘寺へ。聖徳太子生誕の寺だ。これも火災のせいで古代の面影を残さないが、如意輪観音が立派だった。

再び飛鳥宮へ。飛鳥宮は、蘇我入鹿が殺された場所である。正殿での儀式の際に斬りつけられたので、おそらく脇殿の影に潜んで機を伺ったのだろう。大体このようなアングルだったはずだ。

次いで、酒船石・亀形石造物に向かう。飛鳥は石と水の都とも言われ、不思議な石造物には魅力がある。2000年に発見されたのが、この亀形石造物である。

水の祭祀に使われたのは明らかだが、どう使われたのかは明らかではない。

斉明天皇(皇極天皇重祚)によって手掛けられたもので、この裏にある山も人工らしい。そして石を運搬するため運河を開削し、時の人は「渠心(たぶれごころ)の溝」と呼んだらしい。「こんなものを作るなんて気が狂っている」という意味だ。1年前くらいの、大屋根リングに対する世間の反応を想像していただければよい。

実際、近くにある飛鳥坐神社の麓では、幅10mほどの溝の遺構が検出されている。

この近くでは、富本銭を鋳造した飛鳥池工房遺跡があり、その上には奈良県立万葉文化館が建っている。

亀型石造物、飛鳥池遺跡はともに、万葉文化館の建設に伴い発見されたらしい。

歌をテーマにした博物館で、エントランスはこんな感じ。異空間に誘うような演出の博物館は好きだ。

かわいい。

続いて飛鳥資料館に向かう。庭には石造物のレプリカ(たまに本物)が展示されていて、中には噴水もある。

亀石。

古の飛鳥。残念ながら、当時の姿をとどめている建造物は何一つない。

バスで飛鳥駅に向かい、牽牛子塚古墳に向かう。牽牛子塚古墳は宮内庁から天皇陵指定は受けていないが、八角墳であること、文献との一致から、皇極(斉明)天皇陵であるというのが定説になっている。現在指定されている斉明天皇陵は、別の人物の墓なのだ。調査が進む前に指定したので、これは仕方ない。

宮内庁から陵墓指定を受けると、発掘が制限される。卑弥呼の墓とも言われている箸墓古墳を掘ることができないのは、宮内庁の規制ゆえなのである。

石室は二つあり、娘の間人皇女が追葬されたという史料と一致する。

飛鳥駅まで戻り、どうしようかと考える。現在時刻は16:30。寺も博物館も閉まっている時間だ。

…古墳は24時間営業だ。日の入りまでの1時間半、古墳を巡ることにした。

欽明天皇陵。西暦500年代の天皇だ。

続いて天武・持統合葬陵の野口王墓古墳。比定が怪しい天皇陵もある中、ここは確実と言われている。これも八角墳らしいが、どうしてもよくわからない。

最後に菖蒲池古墳。山の中腹に石室が残り、大小二つの石棺が残っている。

いつぞやの「歴史秘話ヒストリア」では、ここが蘇我蝦夷、入鹿の墓ではないかと言われていた。

暗くなってきたので橿原神宮前に戻る。急行で京都に向かい、新幹線に乗る。

京都といえば濃厚ラーメン。

グリーン車が安かった。

彷徨!近江編

ゼミの見学旅行で奈良に行く。今回はその前泊で、近江の石山寺紫香楽宮に向かった。

理系ならば実験がある。日本史でも新しい時代なら、文書館や個人宅への史料調査がある。では古代史は家の中で本や史料をめくって論文を書いていれば十分かというと、そうではない。現地にいかないとわからないことも往々として存在する。たとえば低地か高地か、水辺は近いか、平地か山かなどなど。国土地理院の地図を見てもよいのだが、やはり現地に行って気づくことは多い。

もちろん、「現地に行けば論文が書ける」というのは誤っている。遺跡を見たからといって、ガリレオのように「実に面白い」とかなるわけではない。

なぜなら、埋め戻された遺跡、観光客として訪れた寺院では、情報量の面で報告書を越えることはできないからである。現地で得られるのは、論文には現れない思考のガイドライン、「論文の手前の手前の手前」といったものにすぎない。しかし、とても大事なことである。

つまり、「この遠出は研究活動です。」という、誰に向けたわけでもないエクスキューズだ。

東海道新幹線に乗り京都に向かう。昔は青春18きっぷを使っていたが、もう使わない。以前の18きっぷは、「移動50:現地50でいい」という人には最適だった。しかし今は、「移動90:現地10」でないと元が取れないのだ。私はそこまでして18きっぷを使わない。

浜名湖はいつも撮ってしまう。

京都駅ですぐに新快速に乗り換え、石山駅へ。そこで京阪に乗り換えて2駅、石山寺駅である。

石山寺聖武天皇の勅願による寺院で、勅封(天皇しかあけられない)の如意輪観音像が本尊。秘仏で、33年に1度開帳される。善光寺が7年に1度なので、とてつもない数字である。ちなみに、定期開帳として1番スパンが長いのは、管見の限り60年である。

もし筑波の生物学でなく東大の日本史学に来てくれたら、君側の奸として天皇陵の発掘や秘仏の開帳を唆したかったなぁと思うが、現実とはとかくチビシーものなのである。

不敬はこのくらいにして、境内に入ろう。綺麗に整備された参道が出迎えてくれる。

石山寺はその名の通り、その巨岩、奇岩ぶりから名付けられたそうだが、なるほど、これほど寺名と実態が合致している寺院もそうそうあるまい。

本堂。清水寺のような懸造で、礼堂が付属している形。横長の部分が仏の空間、縦長の部分が参拝者の空間となっている。この点は善光寺と似ている。

寺の本堂というのは、それぞれの地形や参拝者のニーズに合わせた形をしていて面白い。ぜひ注目してほしい。

本堂の脇には紫式部がいる。「光る君へ」の時はかなり盛況だったらしいが、安易に「紫式部まんじゅう」とか「紫式部クッキー」とか売らないところがいい。法要受付を潰してbeamsコラボを始めた某寺院とは違う。

悲しい記念だ。

紫式部像があるが、バリアフリーのバの字もない場所に置かれている。健脚のうちに行っておこう。

次いで、紫香楽宮に向かう。紫香楽宮は、貴生川駅から信楽高原鉄道に乗り換えて1駅。1駅といっても、貴生川ーそれ以外、といった感じの路線だ。

貴生川駅のホームに改札が落ちていた。

初見殺しすぎる。東京じゃ無理だな。

紫香楽宮は、聖武天皇が740年代に遷都した宮のうちのひとつで、大仏造立の意思が発せられた寺院でもある。この時期、聖武天皇平城京を離れて畿内行幸し、宮を転々と移し、大仏造立、国分寺建立を指示した。全く迷惑な話だが、それには理由があるのだろう。後述。

ところで、宮が移った順番を試験で出題するのはやめたほうがよい。意味がないし歴史が嫌いになるので。

現地の案内板が紫香楽宮跡として案内するのは、実は寺院跡である。実際、車で来ていた人から「ここは宮なんですか?寺なんですか?」と聞かれたので、「寺…ですね。あ、跡です」と答えざるをえなかった。

金堂跡。当初はここで大仏を造立する計画だったらしいが…無理でしょ。

さて、宮跡に向かうか。

…どうしようかな。途方に暮れていると、先ほど話したお兄さんが車から「資料館行くなら乗って行きませんか?」と声をかけてくれた。天啓。

ありがたくお言葉に甘えた。私はネットリテラシーがあるので詳しくは書かないが、東京から車で歴史に関係するスポットを巡っているとのことだった。車がなければ詰んでいたので、心から感謝したい。名刺はお渡ししたのでまた会えるといいな。

紫香楽宮跡。西脇殿だけ整備されている。

さて、なぜこんな山奥に都を移したのか。「聖武は隠遁したかったんだ」という説が直感に浮かぶが、案外それは外れていない。

一般的に、聖武天皇とは大君主というイメージだ。しかし、正倉院に残る聖武天皇の筆跡を見れば、繊細な人柄が窺える。筆跡から性格を断ずるのも適当でないので、もう少し根拠を挙げよう。

そもそも聖武は、親戚一同の期待を受け続けた人である。

聖武の父は文武天皇、祖父は草壁皇子、曽祖父は天武天皇曽祖母持統天皇である。天武には、持統との間以外にも子がいた。

しかし持統は、自らの血統である草壁皇子皇位につけるべく、政敵の大津皇子を謀殺してしまった。それにも関わらず、草壁は皇位につかず早世、文武を若くして皇位につけたがそれも早世した。そののち、文武の近親である元明、元正、2人の女帝を経て聖武が即位した。

母方は藤原氏に囲まれている。比較的近年台頭してきた藤原氏は、皇族との繋がりを重視した。聖武は、藤原氏がいわば「投資」をしてきた皇子だった。

このような宿命の中、聖武は即位する。それも、文句なしの即位ではない。長屋王は、血統の上では聖武と同等、いやそれ以上であったかもしれない。聖武藤原氏は、皇位継承上の理由から、長屋王に謀反の罪を着せて死に追いやった。こうなると、聖武はもはや藤原氏と共にある。

しかし、さらなる苦難が聖武を襲う。天然痘ともされる、疫病の大流行である。聖武は側近の藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)のほか、多くの臣下を失う。そして、身内のはずの藤原広嗣が乱を起こした。

当時、社会不安や天候不順は天皇の徳が足りないために起きるもの、という観念があった。藤原氏の多くを失った上に、社会不安の責任も負った繊細な帝王。そんな聖武鎮護国家思想に頼るのも、山奥に宮を移したいと思うのも、理解できよう。

なお、紫香楽宮は官人へのアンケートの結果放棄され、平城還都となった。

論考終わり。実証はしていないので、このままだと何にもならない。数十年後に通史を頼まれたらこんなことも書くかもしれないね。

信楽高原鉄道の駅まで連れて行ってもらい、貴生川駅へ…と思いきや、逆方向に乗る。目的地は「勅旨」駅の駅名標である。

勅旨は筆者の研究対象の一つである。詔書に次ぐ書式で、天皇の言葉を下達するものとして規定された。しかし、唐令から受け継いだときに試行錯誤があったようで、規定通りの文書が見えないことが問題である。つまり、日本令の編(自制)

勅旨とピース。

勅旨カード。

奈良に向かうべく、草津線で柘植に向かう。拓殖大学の「拓殖」(たくしょく)ではない。誰にでもわかりやすい例を挙げよう。埼玉西武ライオンズ捕手の柘植世那の「柘植」(つげ)だ。

平日の19時、20時といった時間なのに人が少ない。関西に住みたい。

明日から3日間はゼミ見学旅行だが、それは記事にしない。ネットリテラシーがあるので。

2025年府中の旅

気が付いたら最後のブログ更新から1年が経っていた。まるでHUNTER×HUNTERの更新頻度である。大学院生にとって、筆が遅いというのは致命的な欠点になるので、さすがにブログを再開したいと思う。本当に暇で暇でしょうもないとき(電車を待っているとき、電車に乗っているとき、電車が止まったとき、球場で2-15で負けているときなど)に見てもらえばよいと思っているので、壁打ちのつもりで書く。

そもそも、最近全然旅行に行けていない。「研究さえ進めていれば時間の使い方は個人に委ねられる」という生き方が、やはり堕落を生んでいるのだと思う。18きっぷの改悪も大きい。

この前、研究室の飲み会で「休日の過ごし方」の話題になったとき、「えっと...最近は...都内から出てないしそもそも学会か大学以外で外出しないすねぇ…」と言ったら、先輩から「鬱になるから外出しなさい」と言われてしまった。先週、パペットスンスンのポップアップショップのためにお台場に行ったのが、久々の私用外出かもしれない。

ということで、最近で一番ブログのネタになりそうな、3月に行った府中について書きたいと思う。

まず、府中とは何か(石破)。ここでいう「府」とは国府のことであり、古代に国司が赴任し、国務を遂行した役所である。府中という地名は日本にいくつかあるらしく、今でいえば、「市役所前」「県庁前」といったところだろうか。

筆者は府中という地に特段縁があるわけではないが、先日3人の先生に「府中市郷土の森博物館」への来訪を勧められた。当時、「たまの寺とみほとけ」という特別展をやっていた。

こういった市の博物館で古代の展覧会をやってくれるのはなかなか珍しい。

f:id:koyama_jph:20250308182458j:image南浦和で武蔵野線に乗り換えること約30分、府中本町駅に到着する(早い!)。ちなみに、これが筆者の初武蔵野線であったが、5月にベルーナドーム3連戦に全通したときに使ったので(1勝2敗)、嫌いな路線になってしまった。

府中本町駅は東京競馬場直結の駅で、専用口があるほとである。競馬場は行ったことがないし競馬もやったことがないが、競馬場と野球場はどちらの方が人を収容できるのだろう。

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まずは、駅の隣に位置する国府の復元に向かった。

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庁舎のミニチュア復元と、柱の実物大復元がある。

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この地は高台にあることから、古代は役所に、近世は家康の御殿に使われたらしい。長野市の善光寺周辺の地形を見ても、高台には重要な施設が集まるのである。

続いて、近隣にある大國魂神社に向かう。

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これも古くから存在する神社で、併設の宝物館には立派な文化財や神輿の数々が飾ってある。「くらやみ祭」というのをやるらしい。

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いよいよ、博物館に向かう。駅から徒歩で15分ほどだが、自転車道がとてもよく整備されている。

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いよいよ府中市博物館に到着する。庭園併設で、かなり立派な施設といえる。運動公園も隣にあり、南長野運動公園みたいな感じというのが(長野市民にとっては)わかりやすいだろう。

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常設展示では、大國魂神社のくらやみ祭の特集展示が出迎えてくれる。地方の博物館は、こうした地域色にあふれる展示があるのでたまらない。
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古代の常設展示では、高麗福信がいた。高麗福信は渡来人であり、武蔵国出身でありながら中央政界で活躍、仲麻呂側、孝謙側どちらにも重用され、桓武朝まで生き残った政界の猛者である。来年くらいに出す論文に出てくる人物だが、こんなところで会うとは思わなかった。
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福信の隣には、体験コーナーの一つとして「武蔵国印」の体験コーナーがあった。感動して震えた。何を隠そう、私の研究テーマ(の1つ)は古代の印である。古代の印は金属製であり、「ズッシリと重たいハンコじゃぞ」とある通り、かなりの重量がある。

養老令には以下のように規定がある。

天子神璽。〈謂、践祚之日寿璽。宝而不用。〉内印。〈方三寸。〉五位以上位記、及下諸国公文則印。外印。〈方二寸半。〉六位以下位記、及太政官文案、則印。諸司印。〈方二寸二分。〉上官公文、及案移牒、則印。諸国印。〈方二寸。〉上京公文、及案調物、則印。

1寸は3.03cmなので、内印(「天皇御璽」)は1辺が9cmのハンコということになる。今回展示されている国印は2寸なので、1辺が6cmのハンコということになる。寸・分とは、「一寸の虫にも五分の魂」「寸分たがわず」の寸分である。

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印文。江戸時代は印文の収集と鑑賞が好まれたが、私には印文を鑑賞する趣味はない。よって印文から時代を推定するのは得意ではないが、大宝4年鋳造の国印を再現したようである。

官のハンコは悪用防止のために破壊されるので、印そのものはなかなか残らない。東京国立博物館の法隆寺宝物館には法隆寺の印が展示されるが、まことに貴重な例である。
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下の写真が筆者が捺印したもの。ふざけているわけではない。古代のハンコは、文字全面に対して捺した。これは、文字の上に満遍なく朱をかけることで、捺印後の改竄を一目瞭然にする目的がある(と筆者は理解している)。

現在のハンコは、「◯◯さんの名前がある」「◯◯社のハンコがある」ということが重要であり、どこに捺されるかはあまり重視されない。印を捺すという行為がセキュリティ上有効に機能する例としては、契約書に捺す割印などが現在にも残る。

その捺印自体も、今や電子印鑑に置き換えられつつある。「捺印、めんどうですよね?」という広告を見るたび、ハンコの研究者としてはなんだか複雑な気持ちになる。

なお、ハンコが重いので置いただけである程度捺印される。自重が重いから自重トレでも十分な筋トレになる私みたいですね。

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近世の府中。真ん中にあるのが大國魂神社。
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博物館を出ると、いくつか古い建物がある。下の写真の建物は小学校。横長で、真ん中に階段があって、壁の質感といい、金鵄会館を思い出す。

…危ない。また「高校時代に戻りたいー」などとほざき出すところだった。戻りたいんですけどね、実際。
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明治天皇の御座所。
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「まいまいず井戸」という変わったものがあった。何のために作ったのかよくわからなくて面白い。


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ハンコの説明で全体の字数の半分くらいを費やしたような気がする。硬い文章ばかり書いてると疲れちゃうので、ブログはライフワークの一つとして、定期的に続けていきたいですね。

最後まで読んでくれた方はありがとうございました。

群馬、群馬、惨劇、群馬

プロ野球の試合は12球団の本拠地だけで行われるのではない。時折、地方球場への「遠征」が企画される時がある。長野県でいえば、今年は松本で巨人ー中日戦が行われた。

8月20日、前橋の敷島球場にて、西武ーオリックス戦が行われた。地方球場はなかなか行けないので、せっかくだから行くことにした。敷島というと「浦風親方かよ!」と思うのだが、今年の群馬県大会決勝も行われた、立派な球場である。

とはいえ、時間に融通のきく学生の身、野球だけ見て帰るのは味気ないので、前後で観光をすることにした。

群馬県は、富岡製糸場は無論有名だが、古墳大国としてもそこそこ知られる県である。群馬県はさながら独立国のようにバカにされることがあるが、古墳時代は大首長が治める立派な「独立国」だったのであろう。

群馬県は、筆者が学部3年の頃にゼミの旅行で行った地だが、インカレ直前の稽古と被ってしまったので、泣く泣く欠席をしたのであった。

まずは、その禍根を晴らすべく、群馬県立歴史博物館に向かう。高崎の一つ前、倉賀野駅が便利である。

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博物館までは3kmほどあるが、バス停があったのでバスがあるらしい。助かった。

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・・・(現在時刻は12時10分ほど)

歩こう。

倉賀野駅からちょっと歩くと、謎の道路があった。続いていたので、廃線跡かもしれない。

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さらに歩くと、中山道に出る。倉賀野宿があったところで、名残が随所にみられる。

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脇本陣のところには立派なお屋敷があり、今も子孫が住んでいるらしい。

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本陣はクスリのアオキになっていた。

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少し歩くと、分岐がある。右が中山道、左が日光例幣使街道である。ちょうどこのあたりに、倉賀野宿の端となる木戸があったらしい。

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少し歩くと、とりせんというスーパーがあった。地元のメーカーのお菓子など、見たことのないものが売っていたりするので地方スーパー巡りは割と好きなのだが、長野と風土が似ているからかそんなに真新しいものはなかった。ただマスコットキャラクターが可愛い。

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駅から歩くこと1時間ほど、博物館に着いた。かなり綺麗で、国宝埴輪の展示室の演出は素晴らしかった。

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近くにある綿貫観音山古墳の模型。

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ぐんまちゃんが随所にいる。

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先ほどの、中山道日光例幣使街道との分岐。

 

さて、さすがにもう歩く気はなかったので、バスを使って駅に戻る。敷島球場は、群馬総社駅から13分らしい。

 

と思ったのが間違いだった。時間だけ見ていたらどうやら車での所要時間だったようで、歩くと1時間ほどかかるらしい。

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急ぎつつ、道中の古墳に立ち寄ることにした。群馬県は横穴式石室が多く、見られるように整備されている。

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宝塔山古墳。

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蛇穴山古墳。

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球場が見えてきた。チケットを表示しようとしたところ、ライオンズチケット会員のIDを記したメールが消えてしまい、表示できない。先に着いていた同行者と、ライオンズのスタッフさんの尽力によって入ることができた。

 

大変申し訳ございませんでした。

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球場はこんな感じ。リプレイ映像もしっかりしていて、いい球場だった。

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外野席は、石とはいえ指定席。地方球場の外野で指定席は珍しいらしい。

 

さて、試合内容はというと、田嶋が三振の山を築く好投を見せるも、打線がことごとく好機を活かさず、唯一見せた隙を逃さず得点されてしまった。

9番若月が3回出塁したにも関わらず、続く大里の打席でバント×2、ヒットエンドラン失敗という有様。チャンスではことごとく凡退し、9回、代打宗の初球ファウルフライ、最後は来田の牽制死で終わるという有様だった。

10安打無得点と、逆に思い出になる試合だったが、すぐにライオンズのヒーローインタビューとなったため、スコアボードは撮れなかった。「ライオンズさん、俺たちに思い出をくれ!(スコアボード表示しろ)」と言っているオリックスファンがいたのが印象的だった。本当だよ。

これで今年西武戦3連敗。西武の勝率は.302なので、実に2.75%の確率である。

 

高崎駅前で少し飲んで宿に向かった。

 

翌日は、上州電鉄に乗って富岡製糸場に向かう。使ったのは右側のホーム。左側は降車用だろうか。

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硬券にハサミを入れる形の切符。

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駅の近くに、養蚕関連施設を改造したと見られる文化財説明施設があった。映像技術が駆使されており、レベルの高い施設だった。

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富岡製糸場は、駅から徒歩15分程度である。大した距離ではないが、暑いのできつい。

手前に、韮塚製糸場という民間の製糸場があった。建物はすでになく、写真や考古学的研究によって復元したらしい。なので、柱の色が違う。

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富岡製糸場の内部は博物館のようになっていた。払い下げられてから100年以上実際に稼働していたようで、明治時代の面影は建物の外観以外、すでに無い。近代産業遺産としてすばらしいことはよくわかるのだが、実際に稼働し続けていただけあって明治の姿を留めているのは建物外観くらいである。そういう点では、感情が揺さぶられるような感動というのはなかった。

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エレベーターは最近設置されたらしい。

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上州富岡駅には、もう使われていないホームがあった。

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せっかくなので、終点の下仁田駅まで行ってみることにした。

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昼時なので少し散策してみると、カツ丼を売りにする店が多かった。下仁田名物はカツ丼らしい。知らなかった。

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店から少し歩くと崖になっており、川が流れていた。

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帰りの電車は右のものだった。「あれはキハ〇〇!」とかはわからないが、東急、西武を経て上州鉄道に流れついたらしい。

西武……💢

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朝は急いでいて気づかなかったが、上野三碑のレプリカがあった。ユネスコ世界の記憶に登録されているらしいが、それはともかくとして、古代の文書が石に刻まれて残っている点が個人的に重要である。

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