3/6 長野〜上田〜軽井沢〜横川

同窓会楽しかった。

帰省。行きは3/33/4の2日をかけて中央線沿いを観光した。帰りは新幹線を使っても良いのだが、折角なので東信を見て帰ることにした。帰省に一切新幹線を使用しないのは初の試みである。

※この2つの記事、たぶんそれぞれ30人くらいに見られてますね、おそらくこの記事も見ていただいていると思うのでお礼言っときます、ありがとうございます。

①上田

しなの鉄道に乗ってまず向かったのは上田である。上田城が有名だが、今回の目的はそれよりも、別所線と北向観音安楽寺である。

とはいえ、別所線が発車するまでの間に上田城もささっと見てきた。写真は、上田城の堀を通っていた上田電鉄真田傍陽線の「公会堂下駅」跡地である。

かつて繁栄を誇った上田電鉄の最後の生き残りが、別所線である。数年前の豪雨で上田ー城下間の橋が落ちたが、「乗って残そう」などの運動が盛んで地元に愛されているらしく、なんとか復興して今も運行している。松本電鉄上高地線と同様、沿線に大学(長野大学)を抱えており、通学客が大きな収入源であろう。

https://toyokeizai.net/articles/-/420829?page=4

これが終着、別所温泉駅である。

「信州の鎌倉」という売り文句があった。初めて聞いた。どこが「信州の鎌倉」なのかはおいおい述べよう。

別所温泉はもちろん温泉地であるが、寺院も有名である。まず北向観音。少し離れた常楽寺という寺に属する一堂である。その名の如く本堂が北を向いている。これは全国的にも珍しい。

歴史的にあまり両者の関連はないが、本堂が南向きの長野市善光寺としばしばセットで理解され、「善光寺だけでは片参り」と言われる。江戸時代、北国街道を通って善光寺に参る客を別所温泉に誘い込む(寄り道)ための謳い文句といったところだろうか。

善光寺だけでは片参り」という文句は飯田市の「元善光寺」も使っているが、これは実際に善光寺の前身のようなものなのでその通りである。

ただ、「善光寺の本尊が安置されたことがあるところ」と抽象化してしまうと、3/3に寄った甲斐善光寺や岐阜善光寺、諏訪の善光寺や京都の方広寺、奈良の向原寺も含まれてしまうので悩ましいところである。

次に安楽寺である。安楽寺の初代は入宋した僧で、二代目は宋から来た中国人の僧侶。鎌倉時代は北条氏の保護を受けて禅寺として発展していた。建長寺と並び称されるような寺であったという。そして鎌倉時代に活躍した臨済宗の禅僧、蘭渓道隆との関わりが深いというのだから驚きである。かの国宝、安楽寺八角三重塔が有名。貴重な禅宗建築であり、こうした繁栄の産物である。

さて、別所温泉駅はだいたい以上である。「信州の鎌倉」というのはおそらく安楽寺のみのことを指しているのだろう。いささか誇大広告ではないかと思うが、昔のマーケティングとしては効果がありそうな気がする。もう二度と来るかわからない地で「信州の鎌倉」だの「善光寺だけでは片参り」だのと言われたら心を動かされる江戸っ子は少なくないだろう。だからこそ、山奥の別所温泉が一定の知名度を伴ってここまで残っているのだと思う。

②軽井沢

上田からしなの鉄道に乗車し小諸で下車、軽井沢行きに乗り換える。軽井沢といえば何を思い浮かべるだろうか。アウトレット?旧軽井沢?ソーセージ?テニス?

私は旧信越本線である長野新幹線が開通する前、「高崎ー安中榛名ー軽井沢」にあたるルートは「高崎ー横川ー軽井沢」であった。これは要は中山道ルートであり、明治時代、東海道ルートを抑えて東京ー京都間を結ぶ幹線として構想された。

しかし碓氷峠越えは鉄道にとって大変な苦難であり、その克服のためにさまざまな政治家、技術者が頭を悩ませてきた。結果東海道ルートに中心は移ったが信越本線も繁栄した。

信越本線長野新幹線開通と同時に①横川ー軽井沢間を廃止、②軽井沢ー篠ノ井間を第三セクターに移管して大きくその姿を変え、金沢延伸によって③長野ー直江津間も第三セクター化、見る影もなくなってしまった。現在の軽井沢駅には、かつて大きな駅であったことを偲ばせる遺跡が残っている。

軽井沢駅北口から出ている「JRバス」に乗車し、横川駅に向かった。

③横川

高崎から出ている「信越本線」の終点が横川駅である。(出典:路線図:JR東日本 (jreast.co.jp))これだけ見れば、通勤通学のための地域密着型路線に見える。現状はたしかにそうだが、歴史的経緯をみるとそれは正しくない。群馬しか走らないにも関わらず名前に「信越」が含まれ、「本線」という位置づけも与えられている。

これは軽井沢で説明したように、「高崎ー横川ー軽井沢」を結び、直江津まで繋がっていた「信越本線」の名残だからである。「峠の釜めし」で有名なのも横川駅であるが、こんな地方の終着駅の駅弁が日本有数の有名駅弁なのは、信越本線が栄えていた時代の影響である。

軽井沢はあまり整備されていないが、横川の方は鉄道遺産を残そうという意識が強く、「鉄道文化むら」が営業していたり、廃線跡を利用した遊歩道「アプトの道」が整備されている。

横川駅すぐの「おぎのや本店」では釜めし定食を食すことができる。1500円。もちろん1200円で釜めしのみの持ち帰りも可能である。

高崎からは上野東京ライングリーン車課金をした。グリーン車にコンセントがないのは「特急でもないのにコンセントなど烏滸がましいわ!」というJRの差別意識かと思っていたが、電車の製造年代が古く、コンセントの需要がなかったらしい。それにしてはきれいだと思う。

3/4 松本電鉄、姨捨

昨日の記事はこちら

信州健康ランドで英気を養い、2日目の旅に出た。

今日の目的は3つ。松本電鉄松本市街、姨捨駅である。

松本電鉄

松本電鉄上高地線アルピコ交通が運営する私鉄である。アルピコといえば、長電バスと並ぶ修学旅行の定番、アルピコバスであろう。旅行のバスがアルピコだと、なぜかテンションが上がったものだった。

松本電鉄上高地線は松本〜新島々を30分程度で結ぶ。松本駅のホームは7番線で、大糸線と共に篠ノ井ー松本ー塩尻の主要路線とは隔離されている。

ワンマン運転で、整理券方式である。身延線と同じ。

駅はかなり小刻みで、ほぼ無人駅。車内に人も全然いないので心配になったが、途中に「北新・松本大学前」駅がある。平日は松本大生が利用しているのだろう。

30分ほどで新島々駅に着いた。新島々駅で降りたのは筆者を含めて2人である。新島々は上高地方面の入り口で、ここからバスが出ている。つまり新島々は楽しいレジャーの始まりなのだが、筆者はここが旅の終わりである。

松本駅に折り返す電車が出るまで15分ほどあるので、付近を散策していると何やら流れの速い川と巨大な建物があった。昭和電工の赤松発電所らしい。昭和電工といえば、芦田均内閣が倒れた昭和電工事件が思い出される。

松本市

かなり久しぶりに松本市街の散策をする。松本市長野市に次ぐ県下2番目の都市である。長野と松本は長年ライバル関係にあると言われている。

長野市のカードとしては、

あたりである。対して松本市のカードとしては、

あたりであろう。県庁所在地については、1871年、筑摩県と長野県があり、それぞれの県庁は松本、長野におかれた。1876年には長野県が現在の形になり、県庁も長野市に置かれるが、松本市は県庁の松本移設をゴネ主張し続けたのである。筑摩県は長野県に比べて相当大きかった。しかし結局その要求は容れられなかった。歴史的経緯を見れば、松本市が一方的に長野市をライバル視しているのであって、長野市松本市をライバル視しているかというと別にそんなことはない。

松本市街に出る。といっても縄手通りと松本城とパルコくらいのものである。

まずは、時計博物館に向かった。

寄贈された個人のコレクションを展示している市立博物館。驚くことにすべて動き、1時間毎に各時計の鐘が(鳴る仕様のものは)鳴るのである。これからも松本に来た時は寄れるよう、アンケートに記入した(来館者の声は、存続の危機に瀕した時に存続意義を訴えるエビデンスになる)。

続いて、洋食屋「おきな堂」に向かう。連続テレビ小説にでも出てきそうな雰囲気の店で、コーヒーとプリンのセットを頼んだ。よくある固いプリンを想像していたが、この見た目だった。しかし見た目に反してけっこう固く、とても美味しかった。

ところで松本は水の町でもあり、各地で水がわき、水路が多い。

水質もかなりのもので、巨大なニジマスが泳いでいた。

普通列車姨捨に向かう。今日はJRでの移動距離が短いので18きっぷは使わない。

姨捨

次は姨捨駅に向かう。姨捨駅は日本三代車窓と呼ばれる駅で、スイッチバックという点から鉄道面でも有名である。姨捨の語源は、昔話の「うばすて山」である。「大和物語」や「今昔物語」に見えるらしいが、この時代の「殿様」というのは何だろうか。隣国との戦が仄めかされているから国司ではなく、土着した武士かもしれない。

車窓はさすが絶景である。ただ問題は時間だ。次の電車まで1時間10分もあるが、近くに観光地もないので待合室で時間をつぶすのだった……。

 

同窓会いってきます。

3/3 中央線 東京〜村井

3/4に同窓会がある。中学の水泳部の同窓会で、13人中10人が出席予定だ。中学の同窓会としては破格の出席率で喜ばしい。

もちろん長野で開催されるため、帰省しなくてはならないのだが新幹線はやはり高い。3月といえばなんの月か。そう、青春18きっぷの月である。ならばと、青春18きっぷで帰省することにした。

青春18きっぷ

ここで青春18きっぷについてよく知らない方々向けの説明を付す。青春18きっぷとは、1年で特定の期間のみ発売されるきっぷであり、5日分で12050円である(2023春)。つまり1日2400円。そして何が1日2400円なのかというと、JR全線が1日乗り放題で2400円なのである。途中下車もし放題である。

とはいえ、もちろん特急に乗れるわけでない。特急や新幹線に乗る場合には、別途乗車券と特急券が必要で、18きっぷの役得は一切受けない。あくまで普通列車、快速列車が対象なのである(〇〇〇〇ラインのグリーン車は乗れる)。

(各地方の細かい実情に応じた例外規定はさまざまあるので、それは各自参照されたい。)

Googleにて「青春18きっぷ」と検索すると候補に「やばい」「やめとけ」などと出てくるが、これはそういった事情である。「お金を使っていいから、なるべく早く目的地に着きたい!」という人は避けた方がよいきっぷなのは確かである。

一方、このような方々には青春18きっぷを強くお勧めしたい。

  • とにかく安く済ませたい

  • 訪問したいスポットがばらばらかつJR沿線で、途中下車が多い

  • 長時間乗車が苦ではない

  • 自分の時間には特急券に見合うだけの価値がないと思っている

なお、青春18きっぷという名称だが、18歳の時に青春を経験していなくても購入することはできる。でなければ私はこのきっぷを買えていない。

旅程

本日の予定は以下の通り。前回、高尾ー長野直通列車に乗ったが、今回は途中下車可能なのでそんなことはしない。

勝沼ぶどう郷駅勝沼駅跡を見学

酒折駅甲斐善光寺を見学

甲府駅甲府城を見学

岡谷駅で高2の県大会で宿泊したホテル、「ホテル岡谷」を見物

⑤村井駅で高3の県大会で宿泊したホテル、「信州健康ランド」に宿泊

勝沼ぶどう郷駅

勝沼ぶどう郷駅は、「特急あずさ」に乗っていると一際目を引く、風光明媚な駅である。

しかし私が着目したのはそこではない。駅の脇に、ホーム跡が見えるのだ。廃線オタクたる私は、それを目的に下車するのである。

早速、明らかに単線用の列車橋の上に人間用の橋を拵えた遊歩道が出てきた。ホームは次のようであった。

昔は勝沼駅といったらしく、スイッチバックだったらしい。それが複線化に伴い現在の駅になったようだ。

さて、青春18きっぷは途中下車し放題といったが、それは理念上の話であり、ダイヤという現実的な問題とは不可分の関係にある。私はこのホーム跡しかない駅で、1時間過ごすことを余儀なくされたのであった。

酒折駅善光寺駅

善光寺駅」はどこにあるかおわかりだろうか。長野県?いいえ。善光寺下駅はあるが善光寺駅はない。

答えは、山梨県である。身延線甲府から2駅の無人駅が「善光寺駅」だ。

なぜ山梨に善光寺駅があるのか?それは、山梨に善光寺があるからである。善光寺如来というのは生きている仏だと言われ、聖徳太子、鎌倉仏教の開祖たちや源頼朝などから崇敬され、保護を受けてきた。『詳説日本史』にて、室町時代の「門前町」の例として「伊勢神宮の伊勢山田」と並び称されるのが「善光寺の長野」であった。

そんな善光寺如来信濃の外に持ち出したのが、武田信玄である。川中島の合戦の折、甲斐に持ち帰ってしまった。単なる簒奪ではなく戦火から守る、という名目もあったのだろうが、簒奪的な側面も否定しきれまい。

その後如来織田信長徳川家康豊臣秀吉と渡り、秀吉の病は善光寺如来の怒りだとの噂が広まったことでやっと信濃に戻る。

そして武田信玄善光寺如来を安置した場所に、盗んだお連れした善光寺の前立本尊を本尊として成ったのが、甲斐善光寺である。

そしてこの先代前立本尊(現甲斐善光寺本尊)、非常に大きいのである。平安時代の作で、等身大である。よくある「山越阿弥陀図」のように、阿弥陀如来の大きさは可変性なので、あるいは作者の夢に現れた時に等身大だったのかもしれないが、当時の状況を踏まえて歴史学的に解釈するとするならば、増加する参拝者にとって見やすいように巨大な前立本尊を拵えた、という説明もできるであろう。

前置きが頗る長くなってしまったが、探訪記に入ろう。まずこの善光寺、本家に負けず劣らず巨大である。

中も相当広く、外陣、内陣、内々陣に分かれていた。内々陣の右側には甲斐善光寺開祖の像、中央には本尊、左には聖徳太子がつくったという燈篭仏が安置されていた(秘仏)。

また、この善光寺にも戒壇巡りが存在する。本家以外の戒壇巡りに言えることだが、参拝客が少ないので1人だけ暗闇に放り出されることになり、かなり恐ろしい。

甲斐善光寺には宝物館もあり、「源頼朝像」が安置されている。これは元々信濃善光寺にあったもので、武田信玄が本尊とともに運んだ寺宝の1つらしい。有名な源頼朝の肖像が「伝源頼朝像」から「おそらく足利直義像」になったのは記憶に新しいが、その代わりに源頼朝の肖像を伝えるものとして教科書に載るようになったのがこれである(らしい。新聞記事の切り抜きが貼られていた)。頼朝は善光寺に寄進していたから、善光寺にある「頼朝像」は本当に頼朝像である可能性が高い、というロジックである。

善光寺駅身延線に乗り、甲府に向かう。

甲府駅

乗った電車が甲府行きで、次の小淵沢行きが甲府駅を発車するまで時間があったので、甲府駅で下車した。甲府駅を見ると、線路の両脇に城跡らしきものがあった。二枚目の写真にみえるように、城跡を横断して中央線を敷設したらしい。平城宮近鉄がぶった切っているのと違い、これは明らかに城跡と知りながら線路を敷いている。江戸時代は幕領だったので、政府による嫌がらせだろうか。(中央線が甲府に達したのは1903年6月。)

本丸方面に行って見たが、「鉄門」というのがあった。東大生にとって鉄門とは、理科3類の別名である。「鉄門をくぐる」というのは理3受験生にとって縁起が良さそうなので、山梨県や中南信の理3受験生にはぜひともお勧めしたいところである。

天守台には、明治天皇行幸記念碑が建っていた。天皇は国制上では一機関にすぎないが、同時に「年齢、性別、賢愚等々によって制約された」「自然人」(石母田『日本の古代国家』p304)としての天皇という側面も併せ持っているのである。天皇が地方に向かえば「御幸」の名がついた地名などがついてしまう。御幸町 - Wikipedia

岡谷駅

完全に内輪ネタだが、高2の時の水泳県大会は諏訪市で行われ、宿は「ホテル岡谷」という宿であった。これがなかなか古いホテルだった。久しぶりに見に行ってみたが、「コロナ対策」との名目で2020年から3年間休業しているらしい。事実上の廃業な気もする。悲しい。

全く関係ないが、岡谷の高速道路はかなり高い。

⑤村井駅

これも内輪ネタ。高3の時の水泳県大会は塩尻で行われ、「信州健康ランド」に宿泊した。今日の宿でもある。私は以前宿泊した宿や以前行った場所に、「懐かしいな!」などと思いながら訪れるのが好きである。

さらに、「健康ランド」というだけあって風呂が充実している。最近なんだかんだ心身ともに疲れているので、リフレッシュするための宿泊でもある。思えば、一人旅の宿はずっと快活なので、ちゃんとした宿を取るのは3年半ぶりである。

明日は松本電鉄に乗り、姨捨駅で下車し、同窓会に向かう。

有楽町線に乗ってみる

動機

 1/21に院試が終わり、卒論・院試という、ここ半年間最優先にしていた重要課題が全て終了した。

 全てを終えて、何をやりたいのかと考えてみると、それは「新しい景色に触れること」だった。ここ2ヶ月ほど、家ー大学間の景色か、見慣れた帰省の景色しか見ていない(高尾ー長野も、直通が初めてだっただけで景色自体は見慣れている)。

 とはいえ、ここで長距離旅行に行くほどメンタルは強くない。院試の合否がまだわかっていない状態で、片道何千円もかけて旅行に行っても楽しめないことは必定であろう。もったいない。ならば、移動に金をかけず、都内で、見たことのない景色を見に行きたい。

 そこで考えたのが、「東京メトロで一番馴染みの浅い路線」である。馴染みの浅い路線ならば、その沿線の任意の駅で降りれば新たな景色が広がっているはず。

 一番馴染みが薄い路線はというと、有楽町線だった。有楽町線は、このような路線である。適宜参照されたい。

 多分最後に乗ったのが3年前、ディズニーに行くために銀座1丁目ー新木場を乗ったきりである。今回は和光市駅をスタートとする。

方法

 新しい景色を見るためには降りなくてはいけないが、全駅で降りるわけにはいかない。そこで、サイコロ旅をすることにした。とはいえ、公共の場でサイコロを振るという行為は、近くにテレビクルーがいるから許されているのであって、一般人がやっていると不審者極まりない。サイコロを振ることができるサイトを利用することにした。

https://www.web-dice.com

 そして、ただ降りるだけではあれなので、「1駅につき少なくとも500円使う」というルールを設定することにした。最近全然消費してないし。

 願わくば豊洲で降りて魚が食べたい。

実行

 東京メトロの24時間券(600円)を購入。

 1駅目を決める。1からだと和光市には100%止まらないので、初回のみ、サイコロの数から1を引く。

2だった。地下鉄成増駅。全くどこだかわからない。ただ、「なりまし」でなく「なります」と読むことは知っていた。新高3のときに転勤してしまった東進長野校の社員さんの転勤先が、東進ハイスクール成増校だったからだ。「転勤先は成増になります」という駄洒落を思いついたのでよく覚えている。本当につまらないと思う。

 成増駅に着き、5分ほど歩いた末に武蔵家に入ってしまった。しばらくラーメンを食べていなかったのでうまかった。650円。てんや、かつや、ミスドなど、多彩なチェーン店があって楽しい所だ。

 2駅目を決める。3だった。氷川台駅

 ここは駅前が道路で、住宅街の駅という感じ。またチェーン店やむなしかと思ったが、5分くらい歩き回った末、よさげなパン屋を見つけたのでたまごパンとフィナンシェを買った。520円。知らない店に入って何かを買う、という経験が今日初めてできた。

 3駅目。6だった。護国寺。池袋を通り過ぎてしまった。

 護国寺といえばもちろん護国寺だが、講談社の最寄駅でもある。

いつか『日本の歴史』シリーズの末席に加えてほしいので、媚を売っておきたい。かっこいい建物ですね。

 次に向かったのが護国寺である。護国寺長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の寺院で、桂昌院の発願。本尊は如意輪観音。漠然と浄土宗とかだと思っていたので驚いた。

 本堂は小高いところにあり、本堂の手前には「不老門」という門があった。不死機能はいらないと思うが、不老機能は普通に欲しい。

 本堂には無料で入ることができ、三十三観音の像があったり、如意輪観音の御正体があったりと、とても心惹かれる光景だった。現在は国立近代美術館で展示されている、原田直次郎『騎龍観音』の複製が飾られていた。そういえば元々は護国寺にあった絵画である。

 本物こそ美術館に所蔵されているが、本来あったところに複製が存在しているということは(それが優れた複製ならば)嬉しいことである。龍の天井画や巨大絵馬が飾られる外陣に、ひとり西洋画があるのは少し奇妙な絵面だが、それはまぎれもなく当時の光景なのである。筆者は、美術館の特別展で見た仏像を、わざわざ会期終了後に各寺院に行って見たくらいである。

 ここでは、合格祈願のお守り(500円)を買った。もう受けているのに合格祈願とは焼け石に水の感がるが、学業成就にしても、受かっていなければ元も子もないので合格祈願を選んだ。

 如意輪観音は毎月18日や特別な日に開帳されるらしい。また来たい。

 やはり葵の紋があった。江戸で葵の紋を見ると「格式」や「権力」といったものを感じて心が躍る。

 4駅目。4だった。麹町。東京の中心部に近づいてきた。

 麹町といえば、3代目三遊亭圓歌師匠の邸宅がかつて存在したらしい。『中澤家の人々』が出典なので信用ならないが。

 さすが麹町にもなると、錚々たる顔ぶれである。麹町の由来は定かではないらしく、「小路」「麹」「国府路」の3説があるらしい。これは後で知ったことだが、呑気に写真を撮っていた麹町駅1番ホームには、サラリーマンの幽霊が出るらしい。

 店を探したが、麹町ともなると逆に、オフィス、ホテル、大使館、学校、飲食店が99%を占めるため店が見当たらない。寒いのでドトールに入り、550円使った。みんな忙しそうだった。

 5駅目。5だった。新富町

ただ、警視庁を近くで見てみたかったので桜田門で途中下車。日比谷公園の噴水が凍っていたり、かなり見応えがあった。

 新富町へ。築地に近いらしいので、「魚を食べる」という目的を達成してしまった。

 築地本願寺に行ってみる。謎の建築だなと思っていたが、インドの建築様式を取り入れているらしい。内装も豪華だった。当然江戸時代には普通の寺院建築だったようだ。築地本願寺の大屋根は船の目印になっていたとか。

 いよいよ築地へ。とはいえ15:30なので、ほとんどの店は閉まっており、すしざんまい以外で唯一開いていた海鮮丼の店に行った。まぐろカンパチ丼1300円。築地だからといって、激安デカ盛りというわけではない。職人用の食堂は安いのかもしれないが、結局一般人が入れるところは観光地価格だ。築地の市場っぽいところで食べられる、という雰囲気を楽しむためにいくのである。

 6駅目。6だった。新木場を通り過ぎてしまった。あがり。最後に大きい目が続いたため、かなり早く終わってしまった。

 新富町駅からけっこう歩いたため、また戻るのは面倒くさい。次の月島駅がそこまで遠くないため、勝鬨橋の見学がてら歩くことに決めた。

 勝鬨橋はかつて可動橋で、『こち亀』に頻出である。隅田川をはじめ、東京の大きい川は、関東平野であることとその異常な規模から、流れているのか流れていないのかよくわからない。長野の千曲川犀川はえらい違いである。

http://www.j-kochikame.com/special/history/photo_hashi/index.html

北陸新幹線長野ー大宮

 先日、このような記事 を書いた。新幹線を利用せずに帰省しようという試みである。往路は、大宮で乗ると座れない可能性があったため在来線を利用したが、復路は長野駅が「あさま」の始発であるためそのような心配はない。復路は新幹線を利用することにした。

 帰省期間中は、ラーメンを3杯食べたり、善光寺に初詣に行ったり、おみくじで小吉と末吉を出したり、カラオケでは「君が代」バトルで53点を叩き出して非国民になったりと、なかなか充実していた。勉強も、院試前ということもあり、いつもの帰省と比べれば捗った。

 1月9日、翌日のゼミに出るため、16:24発のあさま626号に乗った。3連休の最終日ということもあり、コンコースはかなり混みあっていた。スキー客も多そうだ。あさまは自由席が1~5号車と多く、座れる確率は高いが、車両の中ほどまで列があった。とはいえ新幹線はかなり収容力があるので、それでも2人席を1人で使えるくらい余裕がある。

 在来線に嫌というほど乗った後に新幹線を見ると、その豪華さに驚く。トイレの設備と綺麗さ、座席の座りやすさ、全てが段違いである。自由席がグランクラスにも見えた。安上がりな人間である。

 2人席は進行方向右側の席であるため、長野を出ると、まず目につくのが裾花川沿いのマルコメの工場と、その向こうに見える長野県庁である。新幹線は大学生になってからの方が圧倒的に乗っているが、北陸新幹線の車窓を見ると、未だに予備校の授業を受けに行ったり受験に行ったりした時の心情を思い出す。4年経って、今は院試受験生をやっている。新幹線で『鉄壁』を開く姿は、4年前と変わらない。

 軽井沢に着いた頃、辺りが暗くなり始めた。新幹線の車内はかなり暖かく、眠気から英単語が頭に入ってこなくなったため諦めて『トランヴェール』を読んだ。久々に沢木耕太郎氏の「旅のつばくろ」でも読んでエッセイの書き方を学ぶか、と思ったが、「旅のまにまに」という連載に変わっていた。2022年3月を最後に連載を終了したらしい。

 高崎駅でかなり人が乗ってきて、乗車率が100%近くなった。高崎からならば、乗車券+1000円(休日はもっと安いはず)で高崎線グリーン車(ガラガラ)に乗れるので、筆者の故郷が高崎ならば絶対に新幹線など乗らないと思うが、考え方は人それぞれである。

 高崎といえば、ずっと気になっていたものが「高義マンション」である。いずれいい写真が撮れたら追加するが、マンションの看板の「義」の字がおかしい。下半分が逆である。北陸新幹線を利用する人ならば共感してもらえるかもしれない。

 約1時間20分乗ったところで、大宮駅に着いた。やはり新幹線は速い。1997年の長野県民も同じことを思ったであろう。家に着いたのは、長野駅を出てから約2時間半後だった。在来線よりも4時間半ほど早い。

 高い高いと思っていた新幹線特急券が、なんだか安く感じた今回の帰省であった。

高尾ー長野直通列車

設立の趣旨 

 学科同期や部活同期がブログをやっているのを見て楽しそうだな〜、と思いつつ、なんとなくめんどくさいので構想のままにしていた。事実、昔個人でnoteをやっていたが数本の記事を更新したきりで放置している。それでもブログにリベンジしたくなったのは、部活を無事引退して幾許かの時間ができたことが第一であり、第二の理由としては、寝転がってYouTubeを見ている時間を駄文執筆の時間に充てられたら少しはましだろうという些かな向上心の現れである。

 では駄文執筆によって何が得られるのか。論文集には「あとがき」というものがある。最後に自分語りをしたり周りの人々に感謝する部分であるが、読み手にとってもそこはオアシスである。難解な本編にお手上げになった時は、著者の生い立ちや怠惰なエピソード、日本史学会のレジェンドに指導してもらった話などを見て頭を休め、また本編に挑むのである。こうした機能を果たす場であるから、あとがきが面白い著者はそれだけで個人的には好印象である。論文を執筆することと、「あとがき」を執筆することは異なる能力が要求される。たぶん。筆者もいずれ論文集なるものを書き、あとがきを書いてみたいと思う一学生であるが、文章(特に少し砕けた、面白みのある文章)が壊滅的に下手である。先日、長野高校生に配られる『金鵄』を手に取り、なんとなく自分の執筆部分を読んでみたところ、寒すぎて読むに堪えず、数行で読むのをやめてしまった。筆者自身が面白くないという根本的問題はあろうが、訓練すれば多少は改善が見られるかもしれない。日本史以外のことを執筆し、来たるべき日に面白い「あとがき」が書けるように訓練したい、というのが本ブログの趣旨である。もちろん論文集が出さなければ元も子もないので、本業を頑張ることは申し添えておく。

本編

 2023年に突入したとき、筆者は東京にいた。1/4、5に迫る卒業論文提出に備えるためである。年越しに帰省しないのは、3年連続であった(コロナ流行のためー成人式のためー卒論のため)。

 醤油ちゃんこに餅となるとを浮かべただけの雑煮で三食を賄い、正月のお笑い特番で適宜休憩を挟みながら卒論執筆と院試勉強を交互に行っていた。

 無事卒論を提出したところで、やっと帰省である。ところが、その移動手段に1つ問題があった。北陸新幹線で長野に行くためには、東京在住ならば東京、上野、大宮のどれかから乗車するが、大宮と上野の間には実に1000円近い差がある。ならば大宮から乗りたいものである。しかし、この年始の繁忙期、大宮から乗って席がある可能性は低い。指定席にするにしても、指定席代で浮かした1000円はパアである。

 だったら、新幹線を使わなければよいではないか。高尾から甲府、諏訪、松本を経由して長野に至るルートである。このルートは高校の卒業旅行でも経験しており、特に抵抗はなかった。今回の帰省の往路は在来線を乗り継ぐことに決めた。しかし、乗り換えは面倒なのでしたくない。いろいろ調べたところ、14:09高尾発の長野行なるものがあり、即座にこれに決めた。

 14:09高尾発に乗るために少し余裕を持って高尾に着くには、12:49東京発高尾行の中央特快に乗る必要がありそうだ。色々と逆算して、11:30ころに家を出ることにした。

 東京駅に着いたのは12:20ころだった。ここで昼食を摂らないと悲惨な旅路になってしまうが、いかんせん昼時の東京駅である。飲食店という飲食店に行列ができている。駅弁を買うにしても、当該列車はロングシートの場合もあるようで、それを考えると憚られた。結局、普段なら絶対に買わないような1つ300円ほどの惣菜パンを2つ買い、イートインコーナーで食べた。

 中央線は相変わらずの混雑であったが、人の流れを見ていると面白い。まず新宿でほとんどが入れ替わる。中野、三鷹国分寺はまあまあで、立川、八王子でほとんどが降りた。それでも乗車率50%はあったので、これが全員長野行きに乗るのかと思って少し急いだが、そんなことはなかった。よく考えてみれば高尾には高尾山という行楽スポットがあった。その客が多かったのだろう。高尾行きたいなら京王線の方が安いのに

 高架を渡って長野行が入線する予定のホームに着くと、ちょうど、これから5時間ほどお世話になる列車が入ってきたところだった。座席を見ると、ロングシートであった。高尾ー長野を通しで乗る異常者のことは想定されていないらしい。ボックスシートならば早めに確保するところだが、ロングシートは隣人ガチャがあるのみで席自体はどこでも同じなので、一目でこの電車の凄さがわかる構図を探して撮った。

 この列車には番号とか、歴史とかがあるらしいが、そういうことを調べるのを自分に課すようになるとまた更新が止まるので調べないことにした。

14:09 高尾駅発。

 乗車率は50%くらい。日差しが暖かく、『類聚三代格』の読解が進んだ。車掌さんの声が良い。イケボという感じではなく、落ち着く低い声である。

15:04 甲斐大和駅着。

 引用関係が複雑な官符が登場して古代人に腹を立てていたところであった。中世の文書を少しは見習えばいい。無理だけど。特急列車待ちということで8分間停車した。

15:17 勝沼ぶどう郷駅着。

 眺めがいいのと、進行方向左側に謎の廃線跡が見えることからいつも楽しみな駅である。調べてみると、昔は姨捨駅のようにスイッチバック駅だったようである。筆者は廃線が好きなので、今度18きっぷで乗車した時に降りてみることに決めた。自分の興味の対象について、「すでに今は無いもの」と抽象化できるかもしれないなと思った。

15:42 甲府駅着。

 かなり人が乗ってきた。なお、甲府駅で乗り換えられる身延線の2駅目には「善光寺」駅がある。これは甲斐善光寺の最寄駅である。善光寺と名のつく寺院は日本に数多あるが、甲斐善光寺はその中でも特別な寺院のうちの1つである。甲斐善光寺を特別たらしめているのは、善光寺の本尊がその地に安置されていたことがあるという事実である。川中島の合戦の折、武田信玄善光寺の本尊をはじめとする宝物数点を甲斐に持ち帰り、安置した。甲斐善光寺の由来である。その後織田信長豊臣秀吉の手に渡り、最終的に信濃に戻った。善光寺は意外と歴史上の有名人と関わりがあるのである。

※こんなことを書いていたら1/9「帰れマンデー」の企画で善光寺への路線バスの旅をやっていて、このことが扱われていた。

 確かここで乗務員交代。良い声の車掌さんともここでお別れである。しかし乗務員も交代するとなると、本当にこの6両で全区間乗るのは自分だけかもしれない。

16:00 新府駅着。

 『真田丸』で昌幸が作っていた城だなぁ。

16:03 穴山駅着。

 穴山梅雪だなぁ。

16:29 信濃境駅着。

 その名の如く、山梨と長野の県境で、偶然にも、時間的にここが折り返し地点である。意外と楽勝じゃんと思ってしまったが、そんなことはなかった。なお、なぜか長野県に入ってから積雪を見るようになった。気候とかが関係してるのかな。甲府市が県庁所在地別の日照時間一位だった気がするが、こんなに顕著に出るものか。

17:02 岡谷駅着。

 暗くなってきた。たしか、高校2年次の県大会で泊まったホテルが岡谷駅の近くにあった気がする。かなり古いホテルだったが、おそらく弱小校だったからで、強豪校はいいホテルに泊まっていたらしい。

 なお、平日なので、このあたりから中高生が乗ったり降りたりしていた。平日から高尾ー長野間乗破などという暇人極まりないことをやっている筆者は、もう無用となった大きい体をなるべく小さくして、伊藤俊一『荘園』を読み始めるのであった。

17:27 南松本着。

 駅から少し歩くと、高校時代思い出の味、つけ蕎麦「尚念」さんがある。長野に支店出してくれないかなぁ。

17:31 松本着。

 そろそろ扉から入ってくる風が寒くなってきた。松本ー長野間は、時間にして1時間20分である。これまで乗ってきた時間の長さを思えば短く見えるが、疲れと寒さから、永遠にも思える時間だった。松本駅では少し長い時間停車する。乗客はほとんど入れ替わった。

18:16 姨捨着。

 夜景がとても綺麗だったが、山側のドアが開いたため下車もせず、特に写真等は撮らなかった。電車内から夜景を撮ることも可能であったが、あまりに車内が静かだったので、小心者ゆえその勇気が湧かなかった。

 斜面を降りて本線に戻った後、特急列車の通過待ちをするとのアナウンスがあった。単線でどうやって待つのかなと思ったら、再び進行方向とは逆に動いて引き込み線に入った。こんなところがあったんだと驚いた。筆者は廃線も好きだが、何に使われているのかよくわからない脇の線路も好きである。

18:53 長野着。

 長かった。高尾ー長野の所要時間は4時間44分。高尾に至るまでの乗車時間も含めれば、6時間ぴったりくらい電車に乗っていた。東海道新幹線東京ー博多の所要時間が5時間であることと比べると、なかなかのものである。

 次からの帰省は、東京から新幹線に乗るか大宮からの指定席券を購入するだろう。某学科同期のように、経験としてグランクラスに課金しても良い。そんな実験的帰省方法であった。

 暇を見て更新します。