3/10 古代を訪ねる旅③薬師寺、唐招提寺、東大寺、平城宮

続きです。

5時間睡眠の状態で23kmも歩いたので、さすがに体調が最悪になってしまった。そろそろ無理をしてはいけない歳であることを自覚しなくてはならない。

当初は飛鳥に行く予定だったが、今の状態で遺跡を見ても不勉強を晒すだけなのでおとなしく寺めぐりをすることにした。

薬師寺

まず向かったのは薬師寺である。訪れたことはあるので当初行かない予定だったが、食堂や西僧坊、西塔初層などを公開しているということだったので行くことにした。特に西塔初層は生きているうちに見られるかわからなかったので嬉しい。

薬師寺は天武・持統両天皇によって建てられた寺院である。これは平城遷都にあたって移転したもので、藤原京時代の薬師寺は本薬師寺という別の寺院になって今も残っている。なお、今の薬師寺は東院堂、東塔などを除いて焼けたため、近年の建築である。東塔は奈良時代の建築が残り、国宝。フェノロサが「凍れる音楽」と評したことは有名。

薬師寺は中学の修学旅行で訪れたことがある。法話を聞いたが、こんな話が印象に残っている。

「これは西塔(さいとう)っていいます、斉藤さんとかいたりする〜?」

(手があがる)

「おお、いてはるね。400年前に焼けました」

なお、金堂(こんどう)も焼けているが近藤さんがいるかどうかは聞かれなかった。

このとき、時間がないという理由で7組の筆者は本尊の薬師如来像を拝することが叶わなかった。法隆寺でも大講堂に行くことが叶わず、両方とも5年後にリベンジした。

金堂の裏には大講堂がある。薬師寺東大寺などといった官営の寺院は、近所の寺のように檀家を持っているわけではない。僧侶を育成する学問の場なので、講堂や食堂(じきどう)がある。全寮制の学校という表現が適切であろう。

大講堂の本尊は弥勒如来である。弥勒といえば、国宝第一号である京都・広隆寺弥勒菩薩像が有名であるが、これは如来である。弥勒とは56億7000万年後に悟りを開くと言われている仏で、今は菩薩であるが、如来の姿を表した像も存在する。

西僧坊では東塔に関する展示が行われており、薬師寺東塔檫銘も展示されていた。これは筆者が、卒業論文において「太上天皇」号が大宝令に存在したことを主張するために使用した史料でもある。

薬師寺のメイン、白鳳伽藍の裏には玄奘三蔵院伽藍がある。これは唐の僧で『大唐西域記』を著し、薬師寺も属する法相宗の開祖でもある玄奘三蔵を祀る伽藍である。西遊記三蔵法師と同一人物。八角円堂は個人を祀る堂である。なお、円周率が3.05より大きいことを証明するには最低でも12角形である必要があるようだ。

唐招提寺

次に向かったのは唐招提寺である。初訪問。前回薬師寺を訪れた際は、猛暑の中平城宮跡を4時間歩き続けたせいで行く体力が残っていなかった。

国宝の金堂。中心に毘盧舎那仏(東大寺の大仏と同じ)、左に千手観音、右に薬師如来が安置されている。千手観音は実際に千本の手を生やしたものである。一般的な千手観音は、1本の手が25の世界を救うため40本+合掌の2本、の42本であるため、大変珍しい。他には大阪、葛井寺の千手観音坐像は実際に千本の手が生えている。

裏にある大講堂は元は平城宮朝集殿であり、今も残る平城宮の建物としては唯一のものである。

なお唐招提寺には修学旅行生が来ていた。いい学校!

東大寺

久々に二月堂が見たくなったので東大寺に向かう。バテ気味なので、境内に入る前に奈良の伝統寿司盛り合わせを食べた。保存のために酸っぱめなので、疲労回復にとてもいい。

さて二月堂に向かったが、折しも修二会期間中で堂内に入れなかった。しかし、東大寺ミュージアムや奈良博にて修二会の貴重映像や小観音厨子の複製を見ることができたのでよかった。

二月堂は大仏殿の北東に位置する堂である。善光寺本堂を大仏殿としたら、城山動物園くらいの位置。本尊は二体の十一面観音(大観音、小観音)だが、これは絶対の秘仏である。絶対の秘仏とは、これまでも(秘仏になってからは)誰にも見せたことはないし、これからも見せてはいけない、という意味。日本三大秘仏は二月堂の十一面観音と東京・浅草寺聖観音、そして長野・善光寺の一光三尊阿弥陀如来である。

法隆寺夢殿の救世観音は元々絶対秘仏だったが、明治時代にフェノロサ(前出)が、国家による調査であるといって無理やり開扉させ、麻布を外して秘仏を解いた。今は毎年春と秋に開帳されている。東寺御影堂の不動明王も同様である。100年以上人の目に触れなかったという意味でいえば、清水寺奥の院の三面千手観音像もある。

秘仏は、どう考えても一般の参拝者が近づける存在ではないのだが、ずっと厨子の前にいたくなるような、何とも不思議な魅力がある。

四天王で有名な戒壇堂が改修中で、代わりに千手堂が公開されていたので行ってきた。戒壇堂の四天王は現在東大寺ミュージアムに展示されているが、拝観は戒壇堂もミュージアムも600円なので、ミュージアムは他の展示物も豊富な分、いくぶんお得?かもしれない。

東大寺には1年に1日だけ公開される像がいくつかあるが、それら全てを拝するのが筆者の夢である。

平城宮

微妙に時間があったので寄った。専門といえば専門なので少し詳しめに解説しよう。平城宮は710年に遷都した平城京の中枢のこと。宮(=御屋=ミヤ)のある所(=処=コ)、でミヤ/コである。平城京といえば官人の居住区を含む、いわゆる一条二条といった範囲を指すし、平城宮といえば、天皇の住む内裏や官衙大極殿しか含まない。

(https://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/initiatives-heijo/about.html)

芥川龍之介で有名な羅城門は京の門、朱雀門は宮の門である。羅城門と朱雀門を結ぶメインストリートが朱雀大路。国家の威容を示す役割があるので非常に幅が広い。藤原京が放棄された理由はいろいろな説があるが、朱雀大路の迫力不足(狭い、門を出たら丘があるので見通しが悪い)が一因であったことはほぼ明らかである。

朱雀門前には天平/平城宮〇〇館とつく展示施設や食事処、お土産屋が整備されていた。中でも「天平みはらし館」ではVR上映が行われており、大仏造立をテーマにしたリアルなアニメを見た。平城京が再現され、聖武天皇橘諸兄に声がついている映像を見て感極まりそうになった。

平城宮跡は整備が進んでおり、いずれは大極殿を囲む回廊まで整備する予定とのことである。なお、平城宮跡はかなり歩くので友人や恋人と行って険悪になっても責任は持てない。

大極殿。対外的な儀式空間であり、当時は寺院くらいにしか使われていなかった先進的な建築様式を採用している。ここで再現されている大極殿は藤原宮の大極殿を移築した「第一次大極殿」である。これは聖武天皇が740年代にあちこち遷都した際、恭仁宮の大極殿として移築され、そのまま山城国国分寺の金堂となった。律令制定を共に祝った日本最初の大極殿は、再び日本の中心となることはなくその生涯を終えたのである。

なお、仁和寺の金堂が元紫宸殿であるように、宮廷建築はわりと色々な所に下賜されている。

平城宮跡は、遷都後だんだんと荒れ果て、1000年も経つと農地になっていた。平城宮跡を確定するため、明治時代に関野貞という建築学者が調査した際、地元民が「大黒芝」と呼ぶ高台を発見した。これはつまり「たいごくでん」が転じて「だいこく」となったものであると考えた関野は、ここで大極殿跡の発見に至るのである。難波宮跡を発見した山根徳太郎博士の情熱も、心を打たれるものがある。

ところで、史跡の保存というのはしばしば現代的な利益と相反する。家を建てようと思った土地に重要な遺跡が発見されてしまっては土地の所有者としてはたまったものではない。実際、遺跡による工事の遅延や中止をきらって遺跡を見つけても壊してしまうこともあるという。「保存か開発か」問題としては、高輪ゲートウェイ駅付近の鉄道遺産、高輪築堤が記憶に新しい。

遺跡なんてそこらじゅうにあるのだから、全てを保存する必要はないと思うが、遺跡は一度失われると2度と戻らない。例えば、藤原宮の内裏構造がわかれば律令国家成立期の様子がもう少し明らかになるのだが、池にされてしまっているのでもう2度とその建物配置を窺うことはできない。これからの遺跡のためにも、共存の道を模索したいものである。

近くに平城天皇陵と称徳天皇陵があったため、論文で使わせてもらったお礼にお参りに行ってきた。いつか夢に出てきて色々教えてもらえるとありがたい。ところで、歴史上の人物は歴史学研究者をどのように思っているのだろう?自分なら正直ウザいと思う。

天皇陵は立ち入りができないため、丘を外から拝することになる。